IL DIVO―OUR STORY ぼくたちの物語 (詳細)
イル・ディーヴォ(著), IL DIVO(原著), 小西 敦子(翻訳)
すべては音楽から生まれる (PHP新書) (詳細)
茂木 健一郎(著)
「新しいクオリア」「全肯定するのはいかがなものかと思うけど」「音楽好きにおすすめ」「残念。」「音楽の力」
トゥーランドット TURANDOT - DVD決定盤オペラ名作鑑賞シリーズ 7 (DVD2枚付きケース入り) プッチーニ作曲 (詳細)
永竹 由幸(ながたけ よしゆき)(著), 井形 ちづる(いがた ちづる)(著), 長谷川 勝英(はせがわ かつひで)(著), 増田 恵子(ますだ けいこ)(著)
高嶋ちさ子の名曲案内 (PHP新書) (詳細)
高嶋 ちさ子(著)
「ちょっと、もう凄いです、ちさ子さん…」「演奏家による音楽評論」「初心者向けクラシック案内、第2作」
アイーダ AIDA - DVD決定盤オペラ名作鑑賞シリーズ 1 (DVD2枚付きケース入り) ヴェルディ作曲 (詳細)
永竹 由幸(ながたけ よしゆき)(著), 井形 ちづる(いがた ちづる)(著), 井内 美香(いのうち みか)(著), 増田 恵子(ますだ けいこ)(著)
「オペラは生が一番ですがこれはお得です」「これは実にすごい!すごすぎる!!」
証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書) (詳細)
川口マーン 惠美(著)
「エッセー風だが楽しめる」「一気に読ませる」「いかなる解釈も事実とは異なる、という事実」「結論を出さないのが必然の自尊心」「中途半端」
カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書) (詳細)
宮下誠(著)
「カラヤンを論じるにペダンティックな装飾に彩られた美文でなすとは」「自己陶酔的なアジテーション」「カラヤンはヒトラーなのか/「アウシュヴィッツ後の歌」とはアウラのことでは?」「宮下氏の考えは適切か?!芸術とは何ぞや!」「岸に上がれ!もしくは深く潜れ!」
クラシックBOOK―この一冊で読んで聴いて10倍楽しめる! (王様文庫) (詳細)
飯尾 洋一(著)
「こんなガイドブックを待っていた!」「やさしい入門書」「読みやすい入門書」「特別付録CD、期待以上にクオリティーが高い」「お得。」
オーケストラの経営学 (詳細)
大木 裕子(著)
「タイトルに偽りあり」「オーケストラの舞台裏が分かる本」「入門書」「収益組織としてのオーケストラのを経営学的に紹介している。」「価値ある一冊」
ストラディヴァリウス (アスキー新書 82) (アスキー新書) (詳細)
横山 進一(著)
「名器の所以」「これは面白い!」
● 音楽と審美
・「新しいクオリア」
茂木健一郎はしばしば、「クオリア」という言葉を使う。「クオリア」とは何かを見た、想像した時、脳が感じる「質感」のようなものだ。例えば、絹のハンカチを思い出してみる。レンガを思い出してみる。その時、脳が感じる手触りのようなものらしい。
茂木健一郎は、この本で音楽の「クオリア」を考えている。「音楽のクオリアは自由である。感情の「無限定性」を最も生かした芸術が音楽である」と言っている。音楽は、例えば、絵とは異なり、同時にいろいろな楽器が聞こえてくる。指揮者、演奏者の解釈で、違った音楽になる。「音楽のクオリアは<私>の脳内に予測不可能な大きな穴」を開ける。と言っている。
茂木健一郎は、新しい「クオリア」を発見したようだ。これは、この本を読む上で、とても重要なことだと思い、レビューを入れました。
・「全肯定するのはいかがなものかと思うけど」
ポップ・ミュージックのCDが売れなくなり、ダウンロードもほとんどがシングルで携帯電話(PCじゃなくて)に依存する世界が訪れた。そして音楽産業は格差社会だ
そういう社会で本書は新しい音楽入門になった。茂木個人の音楽的逸話と脳科学を同期させての古典音楽解説書である。いつもながらのモーツァルト持論にシューベルトが加わり、古典音楽の本来的な大衆化を求める姿勢には大いに賛同する。
ただ、ライヴ(コンサート)についての記述がやや感情に流されていて(音楽は生じゃないとダメ、というような。。。)この国の「クラシックはチケットが高い」「地方ではなかなか(ほとんど)鑑賞機会が創出されない」という旧来の問題、課題を今一度見直すことを忘れた(すっ飛ばした)ようで、それが本書全体として都市生活者優位主義的な印象を免れないのが残念だ
ラフォルジュネを持ち上げるのは結構だけど、海外から持ち込んだフェスと日々この国で開催される(あるいは開催されない)クラシックのコンサートや、音楽教育(啓蒙)にまつわる不満を説いていただきたかったな
とは言えども、どんどんツマラナクなる内外の多くのポップ・ミュージックへの逆襲として改めてクラシックを聴いて、新しい耳を作るためには良書です
・「音楽好きにおすすめ」
月に一度、シューベルトの歌を勉強しています。初めて間もないので、クラッシックに関する知識もなく恥ずかしいのですが…。そんな音楽初心者の私に、さらに音楽の楽しさを教えてくれた一冊です!好奇心のままにCDを聴いている日々ですが、全てが糧となり、日常を豊かにしてくれます。音楽の知識も増えました。科学者の方が書いていらっしゃるので、文章は少々硬めです。
・「残念。」
本の内容に興味を持って読み始めた筈の読者達は、読み終わる頃にはごく自然にラ・フォル・ジュルネという音楽祭のチケットを買うように導かれているという寸法だろう。つまり、この本は、茂木氏が日々の研究の内容を著したものではなく、タレント科学者として、恐らくは広告代理店の働きかけにより書いたものなのではないかと想像できる。いきおい、内容はごく一般的な音楽評論と、無邪気な音楽礼賛と、そこに日々の研究内容を無理矢理挟み込んだようなものになってしまっている。茂木氏は広告主の要求には完璧に応えていると思うが、学者としては少し節操がないように思う。その誉め殺しにも近いような極端な音楽礼賛も、恐らく全てが本心からとは言い難いだろう。茂木氏の研究に強い関心があり、ことに音楽と脳というテーマについては知識への渇望があったので、残念であった。氏が、いつか純粋に科学者としての見識から、音楽と脳の関係について研究し、語ってくれることに期待したい。
・「音楽の力」
脳科学者が体験的に語る、「音楽を聴く効果」に関する本。リハ専門医が体験的に語る、「音楽を奏でる効果」に関する本(音楽でウェルネスを手に入れる)と比較してみるのも面白い。
・「ちょっと、もう凄いです、ちさ子さん…」
ヴァイオリニストというより毒舌家との印象が強いので、名前を聞いただけで敬遠する方もいるかもしれません。でも。敷居の高い難解なクラシックを楽しく軽快にそしてユーモアを持って一般人に広めてくれたのは彼女と、もぎぎ(茂木大輔氏)、故・羽田健太郎氏だと思います。3人に共通してるのは、本人が“演奏家”だということ。最も身近で“音楽と同化”してきた方たちです。
評論家の語るクラシック論も何冊か読んできましたが、ややもするとうんちくや独断に偏りがちで、初心者向けではない。(勿論、専門家ならではの含蓄に溢れていて奥深いことに間違いはありませんが、 読んでいて楽しいと思ったことはないかも…)
曲自体のエピソードだけでなく、彼女なりの視点や体験話も語られています。毒舌も健在ですが少しも不快には感じませんでした。あっという間にクラシックが身近に感じられると思います。
・「演奏家による音楽評論」
音楽に限らないが、評論家ではなく、現場で実践している人による表現には説得力がある。経営者による経営論には学者による経営論以上の臨場感とか現実に即した本質的な深さがある。この書は第一線で活躍しているヴァイオリニストである高嶋ちさ子さんによる名曲案内。同じくPHP新書からの既刊「ヴァイオリニストの音楽案内」同様、演奏家ならではの名曲解説が新鮮で楽しめます。また、高嶋さんのざっくばらんでどちらかといえばロッカーという感じの人柄もクラシック音楽という敷居の高さをとっぱらうのに貢献しています。
・「初心者向けクラシック案内、第2作」
ヴァイオリニストの著者による初心者のためのクラシック案内、第二作め。
前作「ヴァイオリニストの音楽案内」と形式的には同じで1つの曲に4ページの短い紹介がつき、1つ以上のおすすめCDが紹介されています。作曲者を身近に感じるいきいきした説明と演奏家だからこその曲の解釈や難度のお話、近年の演奏家さんのお話などにくわえ、よくインタビューでも聞かれるというお子様と音楽についてもすこし触れられています。いろいろな曲をチェックしたくなる1冊です。
●アイーダ AIDA - DVD決定盤オペラ名作鑑賞シリーズ 1 (DVD2枚付きケース入り) ヴェルディ作曲
・「オペラは生が一番ですがこれはお得です」
やはり実際に観に行けるのが一番いいとはわかっていますが、でもチケット代は高いし、人気プログラムはすぐ売り切れちゃうし、ドレスアップなんて場合だと着る服だけで頭が痛い。いくら好きでもいつも行けるとは限らないのがオペラ。まだ行ったことないから行ってみたいと思っても敷居が高いのがオペラ。そのオペラがこの値段で見られるのはお得です。
オペラ入門DVDなどの中には、実際の魅力の何十分の一くらいしか伝わってこないものもありますが、これはすごいです。コレクションしたいです。きっとこのDVDを観て、「眠いな」とか、「オペラって苦手かも」って感じてしまった方は実際に観に行ってもあまり楽しめないかと思います。オペラ好きの方にも満足できると思います。わたしはしました。つい観終わった後に「やっぱり劇場行きたいな」ってチケット検索しちゃいました。
映画の方はおまけとして楽しめます。
・「これは実にすごい!すごすぎる!!」
最初発売されたときに正直、叫んだ。数年前に苦労して個人輸入したソフィア・ローレンの幻の映画「アイーダ」が発売されるというのだ。しかもカップリングに当時チケット代に60万円の値がついたスカラ座のマゼール指揮の公演である。これはすごい。オペラ映画の決定版に上演録画の決定版がくっついたようなものだ。で、この価格。一昔前なら到底不可能だったことである。オペラ映画の方は1950年代に当時流行したオペラ映画の中の一作として製作されたもの。アムネリス役は007のMの秘書「ミス・マニーペニー」こと、ロイス・マクスウェル。なんと豪華なことでしょう。舞台ではガッカリ度が高いラダメスもイケメンだし、舞台も1950年代のセシル・B・デミルを髣髴とさせるビッグ・スケールで、終始満足させてくれる。惜しいのは、音楽にかなりのカットが施されてしまっていること。原盤からそうだったのかは曲の切れ方から察するに判断の分かれるところだが、逆に言えばその分ストーリーが分かりやすくはなっているものの、やはり2時間マッタリと楽しませてもらいたかった。しかし驚くのは前半のカットに比べ3&4幕をタップリと見せていること。当時からこのオペラは後半が主題と理解していたのかと驚かされる。幕間には舞台では見られないエジプト対エチオピアの戦闘シーンも挿入されるし、大俳優たちに容赦なく吹き替えを施している歌手も、テバルディやスティニャーニといった当時の第一級の歌手たち。一方、ミラノ・スカラ座の方はキャストもさることながら、ルカ・ロンコーニの「巨石」演出が話題となった舞台。舞台上を次から次へと移動する巨石群に圧倒されること間違いなし。特に第二幕幕切れはもう一度巻き戻して観たくなること必至!!裁判のシーンでも元来舞台裏にいるはずの神官長の姿が見えたり、ラダメスが「清きアイーダ」を唄うのがメンフィスの王宮ではなく茫漠とした砂漠だったり(これがまたパヴァロッティの玲瓏な唄によく合う)、とセンスが溢れる。上演当時は「これ本当に室内でやったの?」と思ったものだった。よくもこんなカップリングを考え出したとため息漏れるこの企画、2枚とも胃もたれしそうなくらい脂ギッシュなアイーダ、一家に一冊必携!!
・「エッセー風だが楽しめる」
フルヴェンかカラヤンか。それを元ベルリン・フィル団員たちに聞いて回る、という本。著者はジャーナリストではないので、取材対象に鋭く迫るという風ではない。たとえばカラヤンがバレンボイムを嫌っていたという証言などはもっと追及してほしかった。そういう隔靴掻痒の感はあるが、取材というより元団員たちとの温かい交流のなかから、音楽家たちの肉声が伝わってくる。
フルヴェンかカラヤンか、という点では、有名なアンチ・カラヤンのテーリヒェンを除いて、カラヤンへの高評価が目立つ。カラヤンのおかげで彼らはもうかったのだからそれも当然といえるが、やはりプロたちを説得するだけの音楽的力量があったのだなあと思わせる。読後、カラヤンの「響き」をもう一度聴き直したくなった。
偶然、仲丸美絵の朝比奈隆の評伝『オーケストラ、それは我なり』と同時に読んだので、カラヤンと朝比奈が頭のなかで重なった。同書によれば朝比奈は反カラヤンのフルヴェン派で、両者の音楽スタイルは対照的だが、晩年にその独裁制がオーケストラと不協和音をかもす過程がよく似ている。どちらもそのカリスマ性が客を集めたが、オーケストラが奏でる音楽と指揮者の関係は真に芸術的だったのか? 華々しい成功の陰にある「独裁者」の晩年の孤独がどちらの本からも伝わってくるのである。
・「一気に読ませる」
雑誌に載っていたものを大幅加筆したインタビュー集である。インタビューの印象が次へ次へと繋がるので読み出すと止まらなくなる。語り口も柔らかい。 両指揮者に対する肝心の評価だが、「ああ、フルトヴェングラーを知っている団員は、皆フルトヴェングラーのファンですね」(カール・ライスター)というように、両者とも体験している古参団員は明らかにフルトヴェングラー寄りだ。「フルトヴェングラーの音楽に対する態度は、最高のものでした。しかし、カラヤンの態度が、演奏の邪魔になったことはありません」(ハンス・バスティアーン)「今まで数え切れないほど多くに指揮者の下で演奏したけれど、フルトヴェングラーは、私にとっては、絶対的に最高の指揮者でした」(エーリッヒ・ハルトマン)といった具合である。 フルトヴェングラーに対する評価はもっぱら音楽に関するものだったが、カラヤンへの評価は音楽以外のことにも及び、そちらのほうは悪評も多い。カラヤンの評価が高くなるのは本書の後半で、多くはカラヤンのみを知る団員だ。とはいえディートリッヒ・ゲアハルトはカラヤンにかなり辛辣である。 カラヤンの晩年に関しては哀れとしかいいようがない。「カラヤンはね、自分の人生にディミヌエンドを持たなかったのですよ」というカラヤン派の一人、ライスターの言葉がカラヤンという人物の生き様を表している。老いることへの抵抗。聴力を失うといったフルトヴェングラーの悲劇とはまた別の次元の悲劇だ。 フルトヴェングラーは音楽人間だった。フルトヴェングラーに意識は音楽にのみ向いていた。しかしカラヤンの意識は音楽とともに自分自身にも向かっていた。そこが二人の決定的な違いだと私は思う。
・「いかなる解釈も事実とは異なる、という事実」
ベルリン・フィルの元団員11名に行ったインタビュー集。そのあと、著者の聡明な総括があり、また、初学者向けと称して編集部が追加した解説がある。但し、この解説(18ページしかないのが残念)は初学者向けなどではなく、しっかりと書かれていて、ふつうに面白い。反面、本当の初学者が読んでも、何かがわかるようにはならないだろう。そういう点で、この本はどこまでもクラシック音楽ファン向けである。
ほぼ同名の著書があるテーリヒェンへのインタビューから始まる。彼が強固な反カラヤン・親フルトヴェングラー主義者であることは好事家には有名であるが、本書では他の楽団員へのインタビューから、彼の意見が必ずしも公正でないことを暴きだす。しかし、公正ということを言うなら、いったい誰の意見を信じればいいのか。各人の意見は、とりわけカラヤンの評価について大きく割れ、個人の追憶や解釈がこれほど多様になりうるとは、想像をはるかに超える結果であった。一部の人間の意見だけでは何もわからないのだ、ということが痛感される。
インタビューの態度は、本書を読む限り大変好感が持てる。著者は礼儀を忘れず、謙虚に質問を行い、一切無理をしていない。きちんと勉強してからインタビューに臨んでおり、文章表現にも気品があって、かつ大変明快な記述である。各人の意見の比較が随所でなされているのも理解を助ける。もっとも、以前のインタビューで得た意見を、出所とともに次のインタビューで明かしてしまうのは反則ではないかとも思うが、息苦しい国・日本での話ではないから、このくらいなら許されるのだろうか。
・「結論を出さないのが必然の自尊心」
昔の Berlin Phil のメンバー達は,高級住宅街に住み,よい奥さんに恵まれて長生きしている.これも,Furtwangler の お蔭であの戦争中無事に過ごせたし,彼の公職追放中は Celibidache が良くやってくれたし,F 氏の没後は我々が選んだ Karajan のお蔭で充分稼げたためである.こう考えれば,F 氏と K 氏のどちらが良かったかなど,聞いて来る方が失礼ではないか,と言うのが正直なところではなかろうか.結論がほしければ,要するに質問する相手を間違えたのである.Orchestra, それも Berliner Philharmoniker ともなれば,そのメンバーにはそれなりの自尊心があって当然である.そうして自分達が投票で選んだ指揮者をけなすことは,自分達自身をけなすことになるだろう.だから結論を出さない,あるいは後輩が選んだ後任の指揮者だけをけなすのは必然的である.私は Abbado が好きなので,彼が良く言われないのに一寸ショックをうけたが,以上のように考えればそれも仕方のないことだった,と納得する.質問者の個性がやや弱すぎるのが対話の迫力の乏しさの理由だろう.そのため減点.
・「中途半端」
著者はフルトヴェングラーにもカラヤンにもさほど興味を持っていないようだ。編集者から最低限、読んでおくべき資料、聞いておくべきCDを渡され、その後インタビューに臨んだのだろう。有名な演奏の話が出てもほとんどついて行けないことから、それは推測できる。文才も並としかいえない。「国の特徴がどんどん希薄になってゆくことが、国際化なのだろうか」などとまじめくさって書くことは普通の感覚ではできない。政治にもまったく関心がないらしく、「…彼(フルトヴェングラー)は、政府がどんな理念を持ち、何をしているかということには、ほとんど関心がなかったのではないか」と、平和なことをのたまう。ナチス政治に翻弄されらがらも、自ら理想とする演奏をし続けようとした、W・Fの苦悩を知ろうともしない人間にインタビューをさせるとは…。戦時下、占領地への演奏旅行は、貴重な物資を調達できるので、歓迎すべき任務だった、とも書いているが、戦争から60年後の述懐を、それほど単純に受取っていいものか。不快を催すような断定、下らぬ饒舌、無知は書きだすと限がないが、その一方、女だから聞き出せた話もある。ヴァインスハイマーやフォーグラー氏の話す、北京公演などの逸話は、カラヤンの人間くさい一面を知ることができ興味深い。
・「カラヤンを論じるにペダンティックな装飾に彩られた美文でなすとは」
カラヤン100周年と言うが、当方にはあまりぴんとこない。当方は、宇野功芳という音楽評論家の影響もあり、カラヤンを21世紀を跨ぐまで10年間聞いてこなかった。今年になって、生誕100年の記念廉価盤が大量にリリースされたので、38枚組の交響曲集(DG)を購入して本書を読んだ。「カラヤンは商業主義の権化」というのは宇野も使い古した表現であり、ここ10年でカラヤンというブランドの相対化が行われた結果、主張としてはあまりに当たり前すぎる。著者の宮下は前著の『20世紀音楽』で、文藝・音楽評論家の許光俊の影響を受けながらもコンパクトな優れた現代音楽ガイドを書いたが、本書はだらだらと脈絡のない文章を衒学的に現代思想家の名前をちりばめながら書き流した本であり、つかみ所のなさがまず第一印象である。
対比する対象がクレンペラーやケーゲルという指揮者であるあたりも許の影響が露骨に表れている。
私は音楽評論は、吉田秀和や宇野のような「主観的な感想文」である場合を除いては、歴史的に演奏家や作曲家のアプローチがどのように変化したか、時代背景がその演奏家にどのような影を投げかけたか、という山崎浩太郎のような演奏史譚アプローチという形でしか存在し得ないのではないかと考えている。宮下の試みのように無理に現代思想を結びつけることは不遜であると考える。
その点でいうと、宮下の本書は、演奏家の人生を振り返るわけでもなく、単に使い古されたカラヤン=商業主義、綺麗で無内容という記号の周りで言葉を遊ばせているだけである。彼の文章が、「カラヤン的」な表面的な取り繕いに終始しているのは皮肉なものである。
カラヤンを商業主義というならバーンスタインだって朝比奈隆だってその範疇にいれてもいいのではないか。私のカラヤンのイメージは低層ビルディングの中でひときわ冷酷にそびえ立つ超高層ビルディングというものであり、一般に理解されるような「通俗」ではなく「超然」というものである。カラヤンのCDを聞いて思うことは、この人の音楽には紆余曲折とか試行錯誤がないということだ。だからといって、それをどうこういうわけもない。カラヤンかケーゲル&クレンペラーか、というテーマは面白いが、フルトヴェグラーかカラヤンかと言うテーマの方がやはり生々しい。Symphony Edition
・「自己陶酔的なアジテーション」
全く客観性のない自己陶酔的なアジテーションがのっけからハイテンションで展開される。読むに耐えない大変な悪文のオンパレードである。まあ、血気盛んな学生の文ならさもありなんだが、著者はもう若くもない年齢。おい、いい加減大人になれよ!の一声でもかけてあげたいところである。最近はこのような本質的に知性に欠ける「音楽評論家」もどきが闊歩している。クラシック界の衰退はこんなところにも表れているのだろうか。
・「カラヤンはヒトラーなのか/「アウシュヴィッツ後の歌」とはアウラのことでは?」
カラヤンにいかなるシンパシーも抱いたことのない評者からしてみれば、このタイトルを見ただけで概ね中身がわかろうというもの。ところが、ここにはスゴイ(無残な)ことが書いてある。どこかでこの著者はトンデモ著者だと書いてあったのを読んだことがあるので、これまで一度もその著書を手に取ったことがなったが、レヴューの両極端な意見の併在を見ても、問題含みのオモロイ(無茶な)ことを書く人なのだな。
カラヤンがナチに入党していたというエピソードについてはおそらく有名なものだろう。しかし、本書でカラヤンの演奏およびその権謀術数がヒトラーに準えられるところの論理が「トンデモ」の臭みを放っていてたまらない(面白本として褒めているのです)。
とは言え、如何に何でもその理屈は論理的とはいえない。
著者は「前衛的な芸術学者」であるらしいが、アウラについて言及するところも、いかがわしい論述だ。「アウシュヴィッツ後の歌(詩)」とはつまり、「アウラ」の喪失をさしているのではないのか。西欧的美学による崇高の喪失(破綻)である。アウラの欠如をカラヤンの責に帰し、その大切なアウラを持ち合わせない、資本の走狗カラヤンを断罪するのは、オモロイけれども無理がある(しかし、この面白さをもって評者は本書に☆3つを献じたい)。
カラヤンは意識的にアウラのない音楽をやろうとしたのだと評者は思うが(いや、アウラのある演奏をやろうとしてできなかったので、途中からやめて、晩年それに回帰したのだと思われる)、しかし現代でもアウラのある演奏家は少ないけれどもいる。
現代的音楽観の持ち主なら、保守反動的な演奏と言いそうな演奏。例えば、ピアニストのツィマーマンや身近なところでは小林研一郎などもそうではなかろうか?
しかし、シューベルトにおける内田光子などはアウラを持った壮絶な音楽を奏でている。評者はこれをもって本物の音楽だと思う。
著者がカラヤンと対比するクレンペラーやケーゲルには、確かによい演奏もあるが、これまた随分芸風の違う2人を持ってきたものだ。
クレンペラーのブルックナーやブラームスはその多くが聴けたものではないが、ベートーヴェンの一部やモーツァルト、フランクなどにはこれぞというものもある。たとえば、ベートヴェンの第5シンフォニー、モーツァルトの第25シンフォニー、フランクのシンフォニーなど。しかし、彼がフルトヴェングラーと比べて20世紀的とは言いがたい。ケーゲルには20世紀的と思わせる凄みのある演奏がある。ケーゲルの場合、掛け値なしに素晴らしいのは、バルトークではないだろうか? それもバルトークが20世紀の作曲家だというのが大きいが。ケーゲル演奏のアルビノーニの小品に深淵を見たりするようなセンスは、えらいロマンチックな話である。許光俊の受け売りであろうが、ここに現代的な悲愴を見る宮下の評は、それこそ19世紀的である。というよりロマン派風か?
また、フルトヴェングラーをケレンの演奏家という著者の意見には頷けない。ヒトラーがフルトヴェングラーの音楽に感銘を受けたのは当然である。それはヒトラーの政治的信条(手法)に合致するからなどという論調も牽強付会であろう。当時、フルトヴェングラーの聴衆を音楽の坩堝に巻き込むような天才に魅入られないような人はいなかったのだから。その点では、怪物のように語られるヒトラーとて、一般的な音楽的な感興を抱く、普通の人だったのだ。そして、それが人間の恐ろしいところではないのか? 昼には業務としてユダヤ人をガス室に送り込み、夜にはこの上なく美しいモーツァルトの音楽を愛でるというような。「アウシュヴィッツ後の歌(詩)」とは、こうした事態を敷衍して言われたことであろう。
クレンペラーはフルトヴェングラーに対抗するために、全く違う演奏を志向したのではないだろうか。そうでなければ、彼はフルトヴェングラーの後塵を拝するしかなかったのではないか。それはある意味、極端なインテンポに現われており(この点でテンポを動かせることの激しいフルトヴェングラーを批判していた)、多くの場合、それは自然な感興を欠いた骨組みだけの音楽となったのであろう。なるほど、音楽の見通しはよくなり、その構造を把握する上では、これほど聴き応えのあるものも珍しい。しかし、そうした見通しのよい楽音の構造を提示することでもって、なおかつ一つの音楽として感動的であったのは、クナッパーツブッシュのほうであったと思う。多くの場合。
カラヤンの問題は我々20世紀及び21世紀の文化の問題であるという骨太な著者の論理と、アウラ云々の御託は矛盾を来たしているのである。音楽とて商品だ。コンサートもレコード類も金がないと購えない。それでも敢えて言うところの「商業主義」というものはある。カラヤンはなるほど商業主義だ。露骨なのだ。それが第一義であるからだ。現代のビジネス文化は皆これの矮小版だ。しかし、たとえば現代でもスクロヴァチェフスキなどは「商業主義」とは言えない。端的に言うと、その演奏は芸術的な評価とは別に、金にはあまりならないということだ。
フルトヴェングラーもカラヤンもヒトラー的だったし、そんなことを言うなら、「独裁的=ヒトラー的」という意味では、ナチスに激しく抵抗したトスカニーニなどヒトラー的の極みではないか。ムラヴィンスキーなどは、「スターリン的」だから素晴らしい演奏が出来たということにもなるではないか。こういう理屈は学者が言ってはいけない。
中途半端だが、だいたいこんなところ。
・「宮下氏の考えは適切か?!芸術とは何ぞや!」
友人から激しく勧められ、レビューを書くよう頼まれたので一筆。あまりに過激なタイトル『カラヤンがクラシックを殺した』カラヤンファンには耐えることのできない、叫びたくなるような屈辱的なタイトルなのではなかろうか。
しかし、そんな人にこそ、ひとまず猛り狂う感情を横に置き、冷静に一読してもらいたい。別に著者はカラヤンを毛嫌いしているわけではないようなのだ。
どうやら著者は、「基本的には」音楽には絶望感・悲哀・憤怒など、「負の感情」が必要不可欠であると考えているようだ。それも、個人レベルに収斂されるようなちっぽけなものではない。普遍的な「世界苦」そして時代への「鋭い眼差しと批判」を持ったものにこそ、その奥深く、崇高な音楽を奏でることができる。
足掻き、憤り、救いのない、いかんともしがたい苦痛の中から搾り出すようにして重ねられ、紡がれてゆく音たち。聞くものを時には圧倒し、絶望に追いやり、希望を与え、突き放す。そんな音楽こそが本来ならば評価されなければならない!と熱く語られている。
なるほど、カラヤンには確かにどこか能天気で、非常に良く整った音楽が多く、音楽の構成力・盛り上げ方などは的を射て、まるで麻薬のように人を虜にしてしまう。筆者自身も、それがある部分では有利に働いていることを認めている。
彼の音楽に苦痛や毒など微塵も感じられない。だからこそ大衆に受け入れられる「万能な」音楽となりえている。それに加え、あのカリスマ性だ。それがカラヤン人気を支えている。それは否定できない事実である。
本書は、そんなカラヤン音楽と、カラヤンを祭り上げた大衆を批判する。
彼の音楽はまるで時代を映す鏡のように立ち現れてくる。人々の心には不安や迷い、葛藤が蔓延していた。安らぎを求めていた。「麻薬の音楽」で人々に安らぎと、一時の擬似快楽を与えたカラヤン。そしてそれを無批判に受け入れた大衆。
大衆はカラヤンの演奏でますます大衆となり、今日に至っている。そんな状況に対する筆者のやりきれない思いが連ねられている。「いい加減にしろ馬鹿者ども!なぜ何も考えないのだ!!疑え!頭を使え!」と叫んでいるように思えてならない。大衆とカラヤンは、明らかに「伝統的クラシック」の質を劣化させてしまったのだと。
同感である。全く同じ気持ちを私自身も抱いていた。ただただ「わかりやすい」もののみを享受し、アイドルのコンサートよろしく一時の「ハッピー」を求めて人々は奔走する。
崇高な芸術を格下げし、自らの規範の中に組み込もうとする。組み込めないものは「興味がない」「わからない」「嫌いだ」などと言い捨て、考えることを拒絶する。
しかし、しかしだ。そんな大衆のあり方は本当に「ヘルベルト・フォン・カラヤン」が生まれてきたときに発現したのだろうか。また、それによりこれから「真の芸術」が脅かされるほどの危機に見舞われるのだろうか。
私は、違うと思う。
筆者は「かつて音楽を聞くものは、今とは異なる、もっと高次元な聞き方をしていた」というようなことを述べている。まずこの時点で私は疑問を感じた。そんな聞き方をしていたのはほんの一部、ではなかったか。クラシックはもともと貴族たちのために演奏された。
そこではつまみなどを片手に、時にはたわいもない話を交えながら、もっと気軽に音楽を楽しんでいた。(オペラハウスの二階席、個室のような席がその名残として残っている。)彼らは「客」であった。演奏者は客のために演奏をした。そこにいた人々は、本当に筆者の言うように「全員が」崇高な芸術として音楽を捉えていたのだろうか?
時が経ち、音楽が広く民衆にも嗜まれるようになった。そこで突然音楽が厳格な、宗教のような性格を持って受け入れられたのだろうか?
大衆はどの時代をとっても大衆である。時代によりその差はあれ、概して愚かなもの、救いのないもの、他人任せな、考える力を持たず、時代の流れに流される存在なのではないのか。
そんな中でも芸術はしぶとく生き残り、育まれ、成長して来たのではないのか。一部の芸術家と、その本質を理解し、支持するものたちによって・・。
時代は、いつだって病んでいる。大衆は、いつだって大衆である。
クレンペラーやケーゲルたちのように、彼らの苦悩は「時代」に、そして「愚かな大衆」により助長され、皮肉にも偉大な音楽を生み出す原動力になったのではないか。
そして彼らの音楽を愛するものが、確実にいた。それは今でも変わらない。筆者自身がそうではないか。
彼らの生み出す音楽は埋もれていない。筆者のような人物が、必ずいてくれるからだ。それを大衆に求めても、無駄である。だからこそ「大衆」なのだ。私も含めて。
芸術は、ほんの一部の者たちによって生み出され、理解され、ますますその懐を深めていくものではないか。芸術は誰にでも開かれるが、そこに近づこうとするならば、相応の「エネルギー」が要される。
私は、いつも芸術を目の当たりにするとき、大きな壁を感じてしまう。しかし、その壁を少しづつ壊せたとき、言葉には尽くしがたい知的高揚感・作者への深い共感・芸術への感謝で満たされる。
芸術にはそのようなものであってほしい。様々な感情の軋轢により生み出された芸術は、特別なのだ。
再びカラヤンブームが沸々と再燃しそうなこの状況下で、今一度「カラヤン」を問い直す意義は極めて大きい。
しかし、カラヤンを断罪する必要など、ない。人々が狂気であればあるほど、時代が病めば病むほど、芸術はいよいよその懐を深めるのだと、私は思う。
真の芸術が消えてなくなることなど、ない。人が産声をあげて「人間」になったときから、芸術は確かに存在し続けているのだから。
本書に触発されて私の考えまで長々と述べてしまったが、本書は、「芸術とは何か」を考える確かな契機を提供してくれている。宮下誠氏のほかの著書も、読んでみようと思えた。この本を紹介してくれた友人に感謝したい。
・「岸に上がれ!もしくは深く潜れ!」
本書を読んで感じたことを素直に書いてみる。 まず読後感、これは少なくとも爽快なものではなかった。「悪い冗談はよして欲しい…」、そう呟きながら、苦笑いを浮かべて本を閉じたくなった。かといって、「うん、そうだそうだ!」と声高らかに、諸手を挙げて同意をするという気分にもなれなかった。ましてや、筆者の言説に反論し煙に巻くだけの言葉も持ち合わせていなかった。 筆者は、フルトヴェングラー、カラヤン、クレンペラー、ケーゲルの、「音楽/時代/社会/世界etc」に対して彼らが取った(取らざるを得なかった)態度に、「所在のなさ」(11月19日18時42分追記)、「心地悪さ」や「救いのなさ」を見出し、その「所在のなさ」(11月19日18時42分追記)、「心地悪さ」や「救いのなさ」の背後には、20世紀のヨーロッパでなされた「アウラ(=目に見えない何か、もしくは目に見えない何かは“ある”と言い放てる精神的土壌)(11月19日21時33分一部加筆)」の放棄、喪失があったと告発する。そして、「アウラの喪失」を覆い隠すかのようにして世界に現出した、「大衆」という、「無自覚」で「自己批判」も「向上心」もなく、「今、目の前に見えているもの」ばかりを徒に享受するだけの、「救いようのない」彼ら(そして我ら)を挑発する。
本書を読み終えたあと、このレヴューを書き終えたあと、再び私は、日々に忙殺され埋没するだろう。しかしながら、例えば相手が後ろを向いた瞬間に、ちゃっかり「なんちゃって」と呟いて舌を出すような、戯けたポーズだけは取るまい。こう思わされた。
●クラシックBOOK―この一冊で読んで聴いて10倍楽しめる! (王様文庫)
・「こんなガイドブックを待っていた!」
『のだめカンタービレ』の著者・二ノ宮知子先生のイラスト&推薦文!&『のだめ』の音楽監修をされている「もぎぎ」こと、茂木大輔さんによる選曲CD付き!
のだめファンにはたまらない、夢のような豪華コラボレーションに、思わず購入してしまいました☆
内容は、世界の作曲家の人物像&エピソードや代表作品を紹介していくクラシック・ガイドブック。
ただ、そこらへんによくある教科書的な内容とは違って、クスッと笑えてタメになる情報も盛りだくさん♪
たとえば、バッハの『トッカータとフーガ二短調』の説明で、「近年、嘉門達夫が『鼻から牛乳』と詞をつけて歌っていることでも有名」とか書いてあってフツーに笑えて、頭の中に“バッハ×嘉門”の曲がかかりだす始末。おもしろすぎる!私の中でバッハの存在が、かなり身近になりました(笑)
もちろん、押さえるべきベーシックな情報もちゃんと載っているので、とても勉強になります。今は、コンサートに行きたいな〜って思ってマス。
特別付録の収録曲も、もぎぎ選曲だけあって、すごくいいですヨ!
絶対、買いの一冊☆
・「やさしい入門書」
飯尾さんの優しさが伝わる、易しいクラシック音楽の入門者です。 作曲家別の構成なので、辞書的にコンサートの曲に合わせて拾い読みすることもできます。 「演奏会では絶対にやってはいけないこと」には全く同感。このあたりも著者の気持ちが伝わります。 この価格で、CD付きもお得。王様文庫らしい、良心的な企画です。
・「読みやすい入門書」
偉人伝のように堅苦しいものではなく、人間味あふれるエピソードがたくさん紹介されているので、とても読みやすかったです。コラムも面白くて、「演奏会で絶対にやってはいけないこと!」には、思わずふき出してしまいました。欄外に盛り込まれた情報量もさることながら、クラシック音楽がますます身近に楽しく感じられる読後感がこの本の魅力だと感じました。おすすめです。
・「特別付録CD、期待以上にクオリティーが高い」
N響首席オーボエ奏者で、『のだめカンタービレ』音楽監修の茂木大輔氏が選曲されたCD付きということもあって、気になって買いました。
本の内容は、他の方がレビューで書いているとおり、今までにないユニークな切り口、かつ読みやすいポップな文体で書かれており、予想以上に面白かったです。入門者以外の方も十分楽しめる内容だと思います。
特別付録CDですが、“Love Classics〜愛のアルバム〜”というテーマのもと、エルガーの『愛の挨拶』、ショパンの『別れの曲』など有名な曲から茂木さんらしいオーボエの演奏が際立つ選曲もあり、とてもいいです。
また、「『これぞ!』という世界の名曲、名演奏を選び抜きました」と本書で謳っているとおり、この手の付録CDにしては、かなりクオリティーの高い演奏が詰まっています。レコード店で、CD単品で売っても遜色はない素晴らしい内容だと思いました。
唯一難点は、ミニCDなので演奏時間が限られていること。せっかくの良いCDなので「もっと聴きたい」というのが正直な感想です。(それを踏まえて、星はマイナス1)
まぁ、あくまでも付録CDですし、ガイドブック付きで、この価格であれば、かなりお買い得だと思います。お薦めの本です。
・「お得。」
すごい気軽に読めるクスッと笑える本です。クラシックと一言で言っても範囲が広いですが、各作家を4ページずつ位でコンパクトにまとめていて読みやすいです。斬新です。ただ、あまりに噂話風に書かれているので(チャイコフスキーは同性愛者とか)、ちょっと偏見をもっちゃいそう(笑)
付録のCDはあまり期待していなかったのですが、とってもいい音源でした!
・「タイトルに偽りあり」
長くクラシック音楽を聴いてきたので、オーケストラの経営はどうなってるのだろうかと本書を手に取ったが、期待外れだった。前半はオーケストラをめぐるよもやま話ではあるが目新しくはない。また、コストはかかるが経済的には報われないことを数字をあげて説明しているがこれも周知の事実だろう。クラシックファンなら誰もが知ってるトスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、小澤征爾のプロフィル紹介は紙面の無駄だ。第4章と第6章でようやく経営戦略らしきことが述べられるが大学の先生が書いたとは思えない分析の浅さと大雑把な論旨に驚いた。オーケストラ経営のゴール(目標、成功)とは何か、という基本命題を定義しなければこの議論を進められないと私は考える。オーケストラ経営のフレームを提示し、事実とデータの丹念な蓄積と分析を通して、あるべきオーケストラ経営を提唱していただきたかった。
・「オーケストラの舞台裏が分かる本」
日本にはたくさんのプロオケがたくさんあるが、欧米の一流オーケストラと比較してそのレベルの差が著しいと感じていたが、どうもその原因が日本のオーケストラには組織体を運営するというマネジメントの考え方が欠如しているということが本書を読んで理解できた。演奏家になったり、オーケストラを運営するのには多額な費用が掛かることは何となく予想はできたが、実際に数字で示されていたものは以外と少なく、芸大出身の経営学者らしい内容でビジネスマンにも分かりやすく書かれており面白い。
・「入門書」
オーケストラの運営について何も知らない人、オーケストラについて知りたい人、のために書かれた本。その意味で入門書の役割は果たすが、分析は分析になっていないし、学問では全くないので「経営学」というタイトルはおかしい。本書で提示されている問題は、オーケストラに限らず日本の芸術文化団体やスポーツチームにも共通した「マネジメントがない」という問題である。そんなことは誰でも知っている。著者にはそれが本当に問題なのか、なぜマネジメントがないのに今までやってこれたのか、という構造的な分析を行った上で、これからの日本の芸術・スポーツ団体の経営について検討して頂きたい。とにもかくにも、この分野への関心、投資が減少している事実は大問題と考えるので、こういう本が出たことは無意味ではないだろう。
・「収益組織としてのオーケストラのを経営学的に紹介している。」
ビオラ奏者としてプロ・オーケストラに在籍した経験を持つ異色の経営学者が、芸術とビジネスのはざまで揺れ動く楽団の舞台裏を徹底分析しているのが本書である。赤字続きでも、なかなか倒産しないメカニズム、楽団員のやる気を引き出す指揮者のリーダーシップなど、組織運営の原点を考える上で有益な示唆に富む。ビジネス上の経営を考える上でも多くのヒントが得られる。
・「価値ある一冊」
オーケストラの顧客層を増やすためには「トライアル層」を獲得し、「リピーター層」「寄付者層」に育てていくことが大切、という著者の主張が、現場経験者ならではの実感をもってとてもストレートに伝わってくる。芸術と経営学の両方をプロとして専門的に取り組む著者が、一般のビジネスマンにも興味が持てるような豊富な例と注釈つきでわかりやすく日本のオーケストラの現状と課題認識を提起する本書は、芸術と経営学の橋渡しをするとても価値ある一冊だと思う。
●ストラディヴァリウス (アスキー新書 82) (アスキー新書)
・「名器の所以」
高値で取引されることが多い『名器』とはどういうものなのか?
作者は、ヴァイオリンをF1カーに例えています。楽器の能力を余すことなく発揮するためには、絶えず調整が必要です。その調整が当代一流の奏者によって300年もの間行われ続けたという時間の重みが、名器を生むのだといいます。そして、単純に300年もの長きの間、現役として音を奏で続けられるという事実への驚きがあるじゃないかといいます。
単純明快ですが非常に納得できます。確かに昨日今日つくられた楽器では、この時間の重みに対向できそうにありません。
この本を読むと、一度生演奏を聞いてみたいという気になります。
・「これは面白い!」
名器の写真が豊富で、文章もわかり易くて、とても面白いです。ストラディヴァリウスに関する筆者の分析は冷静で、大変信頼できるものだと思います。超お勧めです!
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