ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2 (詳細)
ニーチェ(著), Friedrich Nietzsche(原著), 氷上 英広(翻訳)
「本書は文学の「世界遺産」です。」「ちょっとおかしいよ」「現代人への挑戦状」「初哲学」「ニーチェの最重要著作」
論理哲学論考 (岩波文庫) (詳細)
ウィトゲンシュタイン(著), 野矢 茂樹(翻訳)
「超高度な思考ゲーム、または哲学的思考の素材集」「明快、明晰な邦訳」「わかろうがわかるまいが、それぞれが勝手に読めばよい」「こんなのわかりません」「参考書もあります。」
ニーチェ入門 (ちくま新書) (詳細)
竹田 青嗣(著)
「癖がなく、読みやすい入門書。」「ニーチェをより深く知るために」「すばらしい!!」「こうして殺されていくのか?」「いい本ですね。」
ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3 (詳細)
ニーチェ(著), Friedrich Nietzsche(原著), 氷上 英広(翻訳)
「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」「詩的な哲学表現」「永遠回帰の誘惑者」「ここに書かれていることは、即日常生活に応用可能である。」「誰にでも読めるが誰にも読めない本。うーん納得」
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) (詳細)
ルドルフ シュタイナー(著), Rudolf Steiner(原著), 高橋 巌(翻訳)
「批判精神旺盛な人が陥りやすい不幸があるー」「精神世界に興味のある人にとっての必読の書」「神秘学の決定的名著」「誤解を生む迷翻訳」「形式主義の迫力」
読書について 他二篇 (岩波文庫) (詳細)
ショウペンハウエル(著), Arthur Schopenhauer(原著), 斎藤 忍随(翻訳)
「読書、思索、作文の手引き。」「私の魂の一冊」「読書と思索のバランス」「『読書について』を読んで学習を学習しましょう。」「自分のこれからの読書人生に参考にしていきたい」
幸福について―人生論 (新潮文庫) (詳細)
ショーペンハウアー(著)
「内容充実!!」「おしゃれな表紙」「参考書として」「鋭い皮肉と高い知性」「厭世家?とんでもない!彼はリアリストだ!」
ツァラトゥストラ (中公文庫) (詳細)
ニーチェ(著)
「詩人ニーチェは読みやすい!」「数学が苦手のニーチェ」「女だらけの世界で育ったニーチェ」「何に苦しみを抱いたのか」「机の上に常備したい本」
道徳の系譜 (岩波文庫) (詳細)
ニーチェ(著), Friedrich Nietzsche(原著), 木場 深定(翻訳)
「値段で選ぶならこっち」「『ツァラトゥストラ』の前にまずはこれを。」「道徳について」「感覚的にはこんな感じでした」「言葉の深さ」
カント入門 (ちくま新書) (詳細)
石川 文康(著)
「ぐいぐい読めました」「一般人の入門書になってない」「カント哲学の世界に入る格好の案内書」「いい入門書だと思いました。」「類似の本はたくさんあれども・・・」
● わたしの読書遍歴
● 人生、基本の書 (Principle-Centered Books)
● 読みたい本B
● 美しき狂気の人
● 丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士「文学全集を立ちあげる」ドイツ編・1
● おれのおすすめ
● 哲学
●ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2
・「本書は文学の「世界遺産」です。」
ニーチェを読む効用は「自分自身を元気づけられる」、「リスクをおかす勇気をもてる」、「物事の本質をつかめる」等にあるかと思います。特に本書は比較的読み易く、万人が認める彼の事実上の最高傑作ですので、ニーチェを初めて読む人に特にお薦めします。
ニーチェ思想の重要テーマの1つでもあります「超人思想」ですが、どこか経営学者PFドラッカーのいうところの「自らをマネジメントする知識労働者」というコンセプトにも通じるところがあるのではないか、と最近私は感じています。
巻末の解説にありますように「ニーチェを可能な限りわかりやすく、しかも解説や注抜きで正確に趣旨を伝えたい」という訳者の強い意思が伝わってくる秀逸な翻訳に仕上がっています。
全ての読書家に、つまり、万人に本書をお薦めします。
・「ちょっとおかしいよ」
皆さん、この訳は判りやすくていいだとか、最高だとか書いてあるけれど、私はとてもそうとは思えません。
判りやすいのは同感。読みやすいのにも同感。
訳者が注訳なしでわかるよう努力したのもまぁいい。
ただ軽すぎる。あまりにも言葉や言い回しを簡単にしたあまり完全な散文になっている。それをニーチェの文章と履き違えてしまっては困る。
本当に深く読みたいなら読みやすいだけではダメです。あれで理解した気になるのは間違いです。
お勧めは新潮文庫の竹山道雄訳。
多分、訳者の解釈云々などの根本的な問題でなく、哲学であり、小説であり、詩であるこの作品の内容をうまく表現できていない訳者の文章力不足かと。
はっきり言ってヘタです。
・「現代人への挑戦状」
何年かで1番感動した1冊です。 ニーチェの作品を読むのはこの本が初めてでした。全く作者についての知識がなくても、充分に醍醐味を堪能できたと思います。
読後には、型にはまれぬ事を恐れず生来の情熱や欲望を持ってもっと激しく生きられないのか、と、作者から挑戦状を渡された気分になりました。
メディアや周囲が言う常識や戒律が、どこか冷え切って感じる方、創作に携わる方、ニヒリズムに囚われている方、などなどに是非お勧めしたい本です。
・「初哲学」
ニーチェの名前は知りつつも、‘哲学は難解’というイメージから触れずにおきましたが非常に読み応えがありました。
半分ぐらいしか解っていないと思いますが、彼の思想を知る事ができ、力が沸いてきます。超人・永遠回帰するための指南を書き連ねてますが、全てを理解できなくとも、「自身を灰にするほど焼き殺さねばならない」(新しい自分に生まれ変わり続けよ、という意味だと思う)や「勇気こそ人類の先史学」と言う様な文など、電撃をくらった様に体全体に染み渡ってきます!この様な一文が随所に見られます。
僕のような哲学を知らない人でも、自分からアクションを起こし続けたい人には、共感・感動するところがいっぱいあると思います。これから他の著作を読んでいこうと思っています。
・「ニーチェの最重要著作」
まず、編集方針に好感が持てる。煩雑な訳注は一切除き、なるべく訳文だけで分からせることができるよう工夫されている。読者は本文に集中し、また自分で思考を巡らすことができるわけである。
この第一部では主に、晩年のニーチェの思想の二大柱の一つである、新しい価値の樹立者「超人」が語られる。ニーチェは「生きるための哲学」、いわゆる「生の哲学」を教える人だ。この散文物語の冒頭で、ツァラトゥストラは形而上的な神の世界を説く者を「幻の背後世界を説く者」として糾弾し、そのような世界は「まことに、およそ存在を証明するのも、また存在をして語らせるのも難い」と叫び、不可知論を展開する(ニーチェは決して無神論者ではない)。『反キリスト者』においてニーチェはキリスト教を「生の敵対者」として攻撃するが、ニーチェの徹底的に生に拘る姿勢、生きる力を伸長することに全てを注ぎ、死の要素を徹底的に遠ざける姿勢は、現代に生きる私達にとっては、ことによると苛烈に過ぎるように思えるかもしれない。
しかし、大切なのはニーチェの思想をそのまま受け入れることではなく、それを自分との関係においてどのように捉え、どのような意味を与えるか、自分の血肉にするかであるはずだ。ニーチェの著作は時間をかけるに値する豊かな素材を提供してくれる。
また、ニーチェは一流の心理学者でもある。散文物語の随所に現れる人間心理への鋭い洞察、辛辣な箴言は、読者を飽きさせない力を持つ。
繰り返し読むに値する書である(下巻に続く)。
・「超高度な思考ゲーム、または哲学的思考の素材集」
訳や注、解説が非常に適切。論理の飛躍、前提知識の必要性、語の省略があるところは訳者が適宜補完してくれているので、論理を一つ一つ、梯子を上るように足場を固めながら上れた。もちろん、完全には理解できないし、曖昧な部分や、飛躍も多い。でも、世間で言われているほど難解で意味不明とは思わなかった。主要な命題は以下の7つ。
1.世界は成立していることがらの総体である2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である3.事実の論理像が思考である4.思考とは有意味な命題である5.命題は要素命題の真理関数である6.真理関数の一般形式はこうである。→(ギリシャ文字とかめんどいから省略)7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない
前半は、非常に精巧に糸を紡ぐような世界の要素への分解とその組み立て。
中盤は、世界と論理のgrounding(ウィトゲンシュタインは現代の記号接地問題を見たらどう考えるのだろう?)→ 思考と論理の同一性と、命題の意味について → 有意味な命題、無意味な命題(トートロジー、矛盾)とは → 各要素命題から真理操作によって張られる"無意味な命題"を通しての論理空間の描画 → 個人の経験による要素命題の有限性と、個人の論理空間の限界(→独我論) → 諸学問(論理学・数学・物理学)の命題の特性と、その正体(目から鱗がボロボロ) → それらの世界記述に関する役割(世界の網目の編み方がここで完成)
クライマックスは、倫理や美に代表される超越的な価値の思考不可能性への帰結(さ最後に全てを理解したとき、上りきった梯子を捨てなければならない)
"哲学とは、自然科学ではない(4.111)"、"哲学の目的は思考の論理的明晰化である(4.123)"という自身の命題を地でいくかのように、ひたすら明晰に、世界、論理、思考、自我、生、神秘について語っている。
一週間以上かけてゆっくり読んだので、はじめの方とかけっこう忘れててちょっと間違ってるかも(--;)でも、これが論理哲学論考とういう本の各命題から、脳内に経験として写像され、操作を施されて生じた私の論理空間(思考の限界)なので、あしからず。あと何回かは読み直したい感じ。子供のころにぼんやりと浮かんでは消えていく問いを、論理という道具によってひたすら明晰にしていってる感じ。その意味で、"おそらく本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう"という序文はまったく正しい。
・「明快、明晰な邦訳」
~これまでさまざまな邦訳が試みられたが、明快、明晰という点では、断トツにすぐれている。日本語として読みやすく、訳語も考え抜かれている。難解かつ神秘的というイメージばかりが先行していたが、本書の登場でそうした神秘化はかなりのところまで取り払われるのではないか。バートランド・ラッセルの解説をなぜウィトゲンシュタインは拒否したのか、なぜ世~~界を語るのに論理空間や像といった概念を導入しなければなかったのか、といったことも訳者解説や充実した訳注で簡潔に説明しているし、「論理哲学論考」が一種の言語哲学であり、その可能性を極限まで追及した書物であること、後期哲学へ進む必然は本書の中にすでに示されていることなどが、明快に見て取れる。既存の訳で挫折していた人は、ぜひ一読をお進め~~したい。~
・「わかろうがわかるまいが、それぞれが勝手に読めばよい」
ウィトゲンシュタインは1889年イギリス生まれ。哲学に論理式や言語分析を持ち込んで、それまで哲学の流れを大きく変えた天才哲学者、だそうだ。なにかの雑誌で某アイドルが愛読書にあげていたので、読んでみた。
で、結論からいうと、やっぱりというか、さっぱりというか、皆目わからん。
後半半分はラッセルの解説文と、訳者野矢茂樹氏の訳注と詳細な解説文である。野矢茂樹氏の訳者解説を読み込んで、やっと、おぼろげながらウィトゲンシュタインが何をいいたかったのかがわかった。ような気がする。
◆世の中は、名前のついたもので出来上がっている。◆であるから「私の言語の限界が私の世界の限界(p114)」である。◆しかも私の言語は私の経験が形作るから、違う経験をもつ他人と決して一致することはない。◆従って全ての哲学的命題はそもそも問う意味をもたない。
当時、ウィトゲンシュタイン29歳、無名。すでに著名な哲学者であったラッセルの解説文がなければ、出版すらおぼつかなかったそうだ。なのに本人はラッセルの解説を評して「自分のいうことを理解していない」と。
彼我の認識の一致を否定しているので、いわゆる独我論である。その説に従えば「論理哲学論考」も原理的に誰にも正しく理解されえない。であればラッセルがウィトゲンシュタインを読み誤ったのもうなずける。
筆者はこれを読んで何がわかったか。
偉い哲学者でも、後輩のこれまた偉い哲学者のいうことは理解できないのだ。 まして普通の人がわからないのは当たり前なのである。
ということ。
が、これは間違いなく、読み違えている。もしかすると正しく読んでいるかもしれないが、それを証明する手立ては原理的にない。それをウィトゲンシュタインは証明した。
であれば、それぞれが勝手に読めばよいのだ。そこにリアリティがあれば、それがそのひとにとっての正解である。
・「こんなのわかりません」
「論考をポケットに入れる」ということが自己目的の方は放っておくとして、こんなのを理解するのは圧倒的な知識のバックボーンが必要だろう。しかし理解出来なくても圧倒されるような警句は端々に溢れている。この金額で手に入るのは奇跡と思える。 論考自身は半分ほど(150頁)で、ラッセルの解説が30頁、注釈が40頁、訳者20頁という構成になっている。そもそも論考はラッセル(およびフレーゲ)を批判する事から成り立っている。そのためラッセルの反論を載せたのだろうが、ラッセルはウィトゲンシュタインを批判してるので蛇足に感じる。それに較べ訳者の解説は素晴らしい。 訳者は「『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりさせる力を擁している。」と言っているが、ウィトゲンシュタインに感化されて哲学という世界でなく現実世界で論を展開している人も多い。例えば佐藤正美さんの「論理データベース論考」では数学の基礎からラッセルを経由してウィトゲンシュタインに到る流れを解説している。数学者でも哲学者でも(多分)ない人に、それだけの情熱をささげさせる何かがこの本にはある。 ただ、衒学趣味がまったくない人には合わないだろう。
・「参考書もあります。」
訳者の手になる、とてもわかりやすい解説書「論理哲学論考」を読むという本があります。あわせて読むと、なんでこんな風に訳してあるんか?という事や、細かいニュアンスも感じられて、面白いと思います。
・「癖がなく、読みやすい入門書。」
本書は、なぜニーチェがフーコーやドゥルーズといったポストモダン思想において注目されているのかという説明から始まり、その後も随所にプラトンやショーペンハウエルといったニーチェを理解するうえで欠かせない哲学者の適切な解説が入る。異論の多い「力への意志」説については、よく見られる4つの視点からアプローチしている。初学者に安心してすすめられるニーチェ入門。
下に、「本書のニーチェは死んでいる」などといったカスタマーレビューが載っていたが、入門書になって死なない哲学書は本来ない。論理的な体系を避けるニーチェの著作はなおさらである。癖のある文章をかけば生きているように見えたとしても、それはまやかしに過ぎないわけで、結局は原書にあたるしかないはずなのである。だから、入門書という枠の中で考えれば、竹田氏のようにとことん読みやすい記述こそふさわしいものだと思う。
・「ニーチェをより深く知るために」
早大大学院で哲学を勉強されていた方が、わかりやすく適切な解説書として本書を薦めていたので、手に取りました。
本書では、単にニーチェの思想だけを解体し、考察するのでなく、その背後にあった時代の情勢や、ニーチェ以前・以後の哲学者たちについても分かりやすく説明されています。
それによって、ニーチェがなぜ、徹底的にキリスト教を批判するのかということの時代背景や、ニーチェの思想の源泉がどこにあるのかということを理解することができました。
また、核であるニーチェ思想の解説も見事なものでした。「ツァラトゥストラ」を読んだ私が、もっとも知りたかった“永遠回帰”については、鳥肌が立ってしまうほどでした。
これで、「ツァラトゥストラ」のアウトラインは掴めたかなと思いました。
ただ、それでスッキリさせてくれるほどニーチェという人物は甘くなくて、本書を読んで新たに湧き出てきた疑問というものもあり、それによって悩ましい気分にさせられました。
しかし、思想をある程度正確に理解した上での疑問というものは、不正確でピントの合わない状態で悩むよりも有意義でしょう。
本書を読むことで、ますますニーチェが分からなくなるという事態も起こり得ますが、ニーチェをより深く知ろうと思うのなら、本書のような入門書は外せないのではないでしょうか。
ニーチェの著作を読んで、“なんとなくわかった”という状態になったら、本書をぜひ手に取ってみてください!
・「すばらしい!!」
後半のルサンチマン云々の箇所は、読んでいて魂を揺さぶられた。自分が求めていた言葉はこれだと。思わず線を引きまくってしまった。読み返すたびに滾々と生きる力が湧いて来る文章は珍しいと思う。
原典でもないし所詮は入門書だろ、という批判もあるかもしれないが、哲学関連の本を読んで感動したのは、私にとってこれが初めてだった。
・「こうして殺されていくのか?」
永井氏のものとこの本を読み比べてみればわかることだが、この本を読んで見えてくるニーチェは、通俗道徳とさえ共犯関係に立てるものだし、人生読本として読むに耐えうる思想家である。しかし、そうであればあるほど「ニーチェなんぞ要らない」という一言で切って捨てたくなってしまう。これは、思想家と哲学者などという区別の問題ではなく、単に読んでいてくだらないのだ。この本のニーチェは死んでいる。竹田氏は、同じシリーズのプラトンの入門書で、プラトンを蘇生させたのだが、ニーチェも同じように活かそうとして失敗している。プラトンは、儀礼的な批判の反復にさらされている。だが、ニーチェに関しては、そうではない。
あと、現代思想に興味がない人間にとっては、ドゥルーズがニーチェについて何を書いていようがいまいがどうでもいい。ニーチェの本のなかで学問的意義を完全に失っているものがあっても、それもどうでもいい。解説書なら、腐るほどあるはずだ。そして、この本は腐るほどあるなかの一冊に過ぎない、ただそれだけだ。
・「いい本ですね。」
著者がニーチェの言わんとしてることを読者に伝えようとする熱意がひしひしと感じられました。そしてちゃんと伝わってきます。適材適所でニーチェの言葉を引用していて、そこら辺(どこら辺?)のかったるい入門書とも一味違います。 ニーチェ哲学の根っこは<力への意志>だったんですね。この概念は現代人にはすごく受け入れやすい。そしてこれを飲み込めれば、巷で一番目に付く<超人>や<永遠回帰>というニーチェのプロジェクトがすんなり受け入れられる。そしてそのプロジェクトのために先ずニーチェがやったのが<ルサンチマン批判>だったんですねぇ。 やぁ、わかりやすかった。
・「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」
ニーチェの最重要著作。かなり独特の散文物語で、決して分かり易くはないが、それでもニーチェの著作の中ではかなり読みやすい部類に入ると思う。ニーチェの思想の核となる書物であるから、ニーチェが初めての方はまずこちらを繰り返しじっくり読むことをお薦めする。
下巻では上巻で中心的に展開された「超人」思想に続き「永遠回帰」が中心に説かれる。ニーチェ曰く「考えられうるかぎりでの最高の生の肯定方法」である「永遠回帰」。過去の苦悩を受け容れつつも束縛されることなく、本来の自己自身、「あるところの自分」になるため、自由な精神をもって生の力を意志する。そうすることによって、そのためだけに全人生を永遠に繰り返すことを望むほどの最高の瞬間を創る・・・。ニーチェの「永遠回帰」の思想は、人生の旅半ば、暗い森に迷い込んだ人間にとってどれほどの勇気を与えるだろうか。
この『ツァラトゥストラ』がニーチェの最重要著作であることに間違いはないが、これだけでニーチェを評価するのは早計でもある。さらにニーチェを知りたい方は『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『反キリスト者』『この人を見よ』あたりは押さえておきたい。
・「詩的な哲学表現」
本書では全肯定の思想を永遠回帰というイメージで語っている。別書「権力への意志」には、無限の時間の中で有限の組み合わせという宇宙において、起こりえることはすでに起き、また無限回起こりえる、という散文的でわかりやすい断章が残っているので、そちらも参照されたし。
・「永遠回帰の誘惑者」
ツァラトゥストラには、教え子たちができた。彼らを「ましな人々」と名付けた教師は、彼らの愚かさを告発し、時に杖で殴打する。
右手の王・左手の王、魔術師、片目の司祭、ヒルの脳髄研究者、さまざまな「ましな者」がツァラトゥストラに従う、彼の大切な愚か者である。
そしてツァラトゥストラに対立する登場人物に、「小人」がいる。彼は重力の魔の別名であり、同時にツァラトゥストラ本人でもある。
「小人め! おまえか! それとも、私か!」
この作品は全てがニーチェの腹話術であり、同時にそれを暴露する書物なのである。作者はこの書物が、恥ずべき乖離で表現されていることを、隠すのではなく、恥じつつも暴露している。なぜなら乖離とは蓄群のするところであり、その喩えが「右手の王・左手の王」であり、「魔術師」だからだ。乖離で作品を描くことの暴露は、シェイクスピアが「テンペスト」で行った。
しかしツァラトゥストラは、乖離した人格の統合を目指す者であり、その意味でニーチェ哲学はニーチェ心理学とも呼ばれる。
「これからは、心理学の時代となる。」(ニーチェ)
皮肉にも梅毒で発狂した者は、未来を言い当てたのではなかろうか。そして彼の告発者であり、後継者であるユングは、この先人を次のように褒め称えた。
「ニーチェの身に何が起きたのかを、人々は理解するべきなのである。」
永遠回帰とは、ユング心理学で「エナンティオドロミー」と呼ばれる心理状態であり、「自我インフレーション」という言葉とも関係が深い。永遠回帰とは、ゲーテの愛した「永遠」と自我とが、一つに合一する瞬間である。
これを原始キリスト教で「三位一体」と呼んだのではないかとするのが、ユングのカバラおよび錬金術解釈である。永遠の第三のペルソナである聖霊とは、「永遠の女性」のことである。
・「ここに書かれていることは、即日常生活に応用可能である。」
上下巻合わせたレビューです。
私は、「ツァラトゥストラ」を読み進めていくうちに、徐々に成長していく精神の向上の音を聞きました。
既成概念を疑い、ぶっ壊して自分の意思で自分の人生を生きること。そして、中途半端な同情は、誰のためにもならないから、極力すべきでないなどなど、まさに本書の言葉たちは生き方の道標となり、私の精神に強度を与えてくれました。
・「誰にでも読めるが誰にも読めない本。うーん納得」
正直に言うとあまり内容が分かっていない気がする・・・。読んでる最中はニーチェの並々ならぬ精神、感情のせいで分かった気分にさせられてしまう人もいるだろうけど、読んでからしばらくして落ち着くと、どうもよく分かっていなかったのでは・・・という気分になる。少なくとも自分はそうだった。もしかしたらある程度は理解できていたのかもしれないが、ニーチェの本当に言いたいことには到底たどり着いていない。この本を読んだ率直な感想はこんなところだ。まあ、こういう本だからずっと読み継がれていくんだろうという感じ。
●いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
・「批判精神旺盛な人が陥りやすい不幸があるー」
神智学や、「超感覚的世界の認識を獲得する」ことが目的で読んだのではありません。誰もが普通に望むように、人生をより豊かに幸せに感じるヒントを求めて読み、そしてその方向での素晴らしい道しるべをたくさんもらいました。神智学上の言葉を、自分のテーマに置き換え読み砕いていくと、(たとえば「神智学徒はいかなるときもひっそり自己沈静する時間を生活のなかに確保するべきだ」を、「幸せになりたい人はいかなるときもひっそり自己沈静する時間を生活のなかに確保するべきだ」というように)人生のあらゆるシーンで深く自己観察して問題を解決していくための大きな助けとなります。特に、「物事を批判したり、酷評したりする行為は高次の認識能力を失わせる。あらゆる事柄の中に優れたものを見いだ!そうとする試み、対象を愛し、敬おうとするたゆまぬ自己への働きかけが、魂の中で今まで微睡み続けていた諸力を目覚めさせるのだ」という「畏敬・礼讃の小道」の叙述には、ハッとしました。このあたりは、物事を比較・批判・二者択一によって観察することを幼い頃から教えられてきてしまったほとんどの現代人の、ゴールのないむなしい思考回路に対する、深い警鐘となっています。一日にほんの少しずつ、ゆっくりと自分に当てはめて解釈しながら、かみ砕いて読み進むと、生きていく上でぶつかるあらゆる壁を乗り越えるための基盤となる透明な心を育てていける、そんな深い価値のある一冊でした。今もヒントが欲しくなると何度も部分的に読み返します。
・「精神世界に興味のある人にとっての必読の書」
大変に中身の濃い本だ。テクニック的には、五感を磨くことによって霊的世界に悟入するという方法が解説されているが、数多ある霊的世界への修行マニュアルの中では、その方法自体は、特に目新しいものではないだろう。本書が他に例がないと思われるのは、神秘修行の持つ危険性を明示し、それを避けるための具体的な方法を情報公開したことであろう。神秘修行者の陥りやすい罠は、主観的な幻想や空想を霊的体験と誤認することや得られた霊的能力を個人的な欲望のために乱用してしまうことなど様々なものがある。シュタイナーは、そのことを明確に指摘した上で、「本書に示された道を行くときには、無理をしない限り、誰も有害な影響を受けない」(71頁)と言明し、ゆっくりとはしているが確実な道を提硊!している。神秘修行の世界では、あちこちに潜む危険を避け、目標に向かって進む道は、通常、グルによって指し示されるが、シュタイナーは本書をそのような個人的な指導の代わりとして構想した。「今日では、時代そのものが霊学上の認識内容をかつてよりもはるかに広く普及させるべき意識段階に達している。以前とはまったく異なり、秘伝の内容はすべての人にとって、手のとどくものでなければならない。したがって書物がかつての個人的な伝授の代わりをしなければならない。」(264頁)
シュタイナーの見たヴィジョンには異論もないではないが、彼が本書で示した方法は信頼できるものであり、彼は何かを見ていたことは間違いのないところであると思われる。精神世界に興味のある人には必読の書であり、庡に置き何度でも読み返したい本だ。
・「神秘学の決定的名著」
霊的な道を志す人にとっては不可欠のガイドブックだ。この本に関しては、シュタイナーの人智学の体系に深入りしなくても十分役に立つ。本来は、師匠と弟子だけで話されていたようなことをすべて書物にしている。その意味では、世界的にも空前絶後の本だといってよい。私自身のささやかな経験からしても、この本に述べられていることが信頼できると確信する。高橋巌氏の翻訳も、一見とっつきにくそうだが実は深みをたたえた日本語であり、味わいが深い。
・「誤解を生む迷翻訳」
本書のタイトルは,巻末の訳者解説よれば,逐語的に訳せば「いかにしてより高次の諸世界の諸認識を獲得するか」になると,わざわざ書いているにもかかわらず,このようなタイトルにしてあります。このような書物に興味を持つ人には大きな問題です。試しに松浦賢訳本(ISBN4-7601-1994-9)と比較すると,本書が「霊界参入が与える諸影響」という章題は,松浦本では,「秘技参入のいくつかの作用について」となっています。本書の訳を読んでいくと,シュタイナーが,わけの分からない,非常に理解の乏しいことを言っているように感じてしまいますが,どうも訳者は,超感覚的世界,高次の世界,秘技,霊界の区別も付かないようで,そのため,翻訳が「作文」になっているように思いました。本書の内容はシュタイナーのエッセンスみたいな本ですので,真摯に学ぼうと考える読者は,他書との併読が必須と思います。
・「形式主義の迫力」
「いかにして・・」は一気通巻に読み通してみると、極めて劇的な構成になっていることに気付かされる。締めくくりは、ひとつの最終的な解脱を迎えた人間の取る道が二つに別れるという話。自分一人が救われてしまう道もあるが、再度、「共苦」の世界へ帰ってくる道もある。前者は黒い道で、後者が白い道である。白い道とは、世界に一人でも不幸な人がいる限り、この世に戻ってきて、救済のために働くという選択であると言う。シュタイナーの同時代人、宮沢賢治が日本の岩手県で全く同一のことを言っているのは、覚者にとっての真理がひとつであるという証拠なのだろう。少し旧いが、「ユリイカ2000年5月号」がシュタイナーの特集号で、高橋巖先生も対談している。さっきそれを読み返してみて感じたのは、自分などは、人智学=原理主義者であり、今となっては旧いタイプかも知れないと言うことだった。高橋先生は人智学の「脱神話化」を話題にしている。それは誰でもが考えることであろう。霊的な問題を物質世界の言葉で語ること自体がはらむ困難が、このような問題を後に残すわけだが、当時の四面楚歌の状況下であくまでも論理的な記述に終始した「いかにして・・・」から受ける印象は、一見、命題・定義・定理・系等々の数学的形式性による体系に近いものがある。しかし、このような形式主義こそが物質界を超えたイデア的存在を記述する上で、もっとも適したものであることも事実なのである。そして、このような形式主義的な記述によって破綻を来さず、むしろconsistent(首尾一貫している)であることが、イデア的、有機的実体の特徴でもある。そのような迫力を持って、霊的世界、人間の本来的な霊性を記述した本書は、やはり、人類史に残る名著の一つ。
・「読書、思索、作文の手引き。」
(1)この本のレビューを書くこと自体困難だ。なぜならば、この本の著者は悪文雑文の類に痛烈な罵声を浴びせるからだ。考えなしにこの本にレビューを書くことはできない。
(2)悪書を避け良書を読むことは誰もが大事だと思うことだが、それを実践するのは難しい。しかしそれは、何が悪い書物かを見分ける術がわからないうちは、である。悪い書物とは何かについて、著者は自分の生きている時代の状況から割り出す。そしてそのショーペンハウエルの時代の状況というのは、現代の日本にもほぼ当てはまることなのだ。
(3)著者は自分の時代になされている国語の破壊をひどく嘆いている。ドイツ語の文法や語彙が、新聞や学者によって歪められていることを滔々と述べる。ドイツ語の知識のない人には幾分退屈かもしれないが、それでも読む価値があると私は言いたい。よい文章を書く参考になる。
(4)この本は毒舌に溢れているが、このような批判精神は見習いたいものだ。ただし、自分で考え抜いた上での批判であるべきで、批判のための批判に陥ってはならないことはこの本からも伺える。
(5)翻訳の拙さを訳者は謙遜しているが、読みやすい本として成り立っている。ただ、原著を読んでいないので、私は原著の文意が翻訳によって色褪せていないと信じるばかりだ。
(6)しかしながら、このレビューは用をなさないだろう。著者は匿名の文章には価値がないと言っているからだ。
・「私の魂の一冊」
大学に入学したての頃、生協で何気なく手に取り、そのタイトルに惹かれるものがあって購入し、その内容が私自身ずっと考えてきたことに酷似していることに驚き、貪るように読んだものでした…。
読書家で博識な人ほど頭が良いのか、なぜいわゆる「知識人」であるにも関らずおかしなことを言う人が存外多いのか、<読書>と<思索>の決定的な違いは何か…。ショーペンハウエルが持ち前の毒舌(?)で読書の弊害を指摘し、思索の何たるかを説き、当時のドイツ語の過剰なまでの修飾表現・大言壮語、文法の乱れ、出版界の体たらくなどを一刀両断します。
解説者も指摘している通り、ショーペンハウエルには確かに天才主義的な所もありますが、彼の指摘している所はかなり鋭いと思います。単なる博識ではない知を求める人、読書家を自負する人、現代の情報・出版の洪水の中で喘いでいる人に是非おすすめします。
・「読書と思索のバランス」
本屋で何気なく買った本だが、翻訳も読みやすく100年以上前に書かれたものとは思えないほど現代にも当てはまる。「思索」、「著作と文体」、「読書について」の3部作で構成されている。
「思索」、では、多読が精神から弾力性をことごとく奪い去り、自ら思考することを抑制することを述べ、真に物事をながめること(例えば旅をすること)は思索する多くの機会を与えることを指摘している。かと言って普通の時間は読書に宛てるべきと決して読書を否定はしていない。何時も思索できるとは限らない。思索したことを書き留めておくことも少しそれとなく書かれている。要は読書で他人の知識・力を頼るだけでなく、自らの頭で物事を考えよということである。
「著作と文体」では、国語(ドイツ語)の乱れを指摘すると共に、最近の発言であれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善していると思い込み新刊をむさぼり読む民衆の愚かさを憂いている。。。まるで今の日本と状況は似ているのではと思わせるもの。生き残っている古書はそれだけ世の人に認められた内容であり、読む価値はあると指摘している。ブームとなって飛びついた本がどれほど本屋の棚に残っているか。。。見れば納得する。
「読書について」では「思索」の裏表であり、自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのは、読書はものを考える苦労がないからである。読書の後にさらに考えることの大切さ、二度読みの効用も記載されている。
あくまでも自分が主役となって主体的に良書を選択し、読書と思索をバランスよく行うことが大切だと気づく。(薄く!)読みやく、ためになる、一読の価値はある。
・「『読書について』を読んで学習を学習しましょう。」
重要なことは自分自身で世界を観察し、考え抜き、そこに不変の法則をみつけることだということである。このように自分自身で見つけた知識だけが本当の意味で自分のものになるのだ。そのようにして初めて世界は部分的にではあるが、理解されうるのだ。いかなる優れた人間でも他人に教えることはできない。なぜなら、結局のところ世界をただの記号であらわしたものを提示できるに過ぎないからだ。世界そのものと、世界を支配する法則自体を直接的に提示することはできないからだ。記号は我々の精神にすでに存在するものを想起させ、組み立てたりさせるだけなのである。だから、言葉によって表現されていることを言葉の上でだけでなく、直感的に理解するには、その表現されていることを既に知覚していなければならない。たとえば、『りんご』という言葉を含んだ文が表現しているものは、りんごを実際のところ知っている人間でないと、よくわからない。生まれつき盲目の人には『空は青い』っていったいなんなことなのかよくわからないだろう。結局のところ、なんにしろ自分で体験しないことにはよくわからないということである。言葉で全部わからせることができるなら、みんな高い金払って旅行したりしないだろう。ターミネ―ター3の出来は実際のところ見てみないとわかりはしないだろう。男には生理痛はいつまでたってもわからないだろう。要するに言葉なんてのは非体験者には通じないのである。思考もまた感覚と同様である。言葉で考えを表現して見せたところでそれを考えたことのない人間には通じないのである、といっても聞いた時点で言葉を手がかりにして、考えることが出来れば伝わるわけですが。つまり考えた事を表現した文は考えを伝達するのではなく、その考えを知っている人間に対してはその考えを想起させ、知らない人間に対してはそれを考えるきっかけを与えるに過ぎないのである。だからショーペンハウアーはですね、世界を自ら体験し、それについて考えなきゃ、いつまでたってもわかりませんよと言っているんです。本ばっか読んで世界を考察しないでいるとアホになりますよということです。これからの日本では、だんだん機械的な仕事が減っていく、したがって創造性のあるなしが重要になってくる。創造性は暗記的勉強で身に付くものでは決してありません。世界を感じ、観察し、考察することが重要であると思います。
一言で言えば、この素晴らしい本は学習の心得を教えてくれているものだと言えるでしょう。
・「自分のこれからの読書人生に参考にしていきたい」
多くの本を読んで楽しい、感動する時間を過ごすことは至福の時間と思っていた。それゆえ、多読をすることに意義を感じていたが本書を読んで自分の浅はかな考えに気づかされた。 表題「読書について」は一読すると辛口な語りであるものの真実を突いている事柄、現象に思い当たりはっとされた。表紙には「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」と紹介され、それは自分が多読することに単に憧れ、自負さえしいてることをこなごなに砕いてくれた。 また他の文中に「・・・読まずにすます技術が非常に重要である。」ともある。この一見、不可解な文章はその後、その技術の具体的な内容、良書の説明と続き、「人生は短く、時間と力に限りがあるからである。」と結ばれる。つい書籍の新刊を目にすると購買意欲をそそられ読まないて置かれている本が増えていく自分を戒める内容であった。また、とても1850年代に書かれた内容とは思えない古さを感じさせない鋭さが随所に散りばめられているようだった。 本書は他に「思索」、「著作と文体」について書かれていて、興味深く読めた。 今後も読書は楽しみたい。多くの面白い、感動する、または思索を豊かにする本に巡り会いたいとは願うが、多読にこだわらず良い本は繰り返し読みたい。本書は自分のこれからの読書人生に参考にしていきたい考えに多く触れることが出来た良書でした。
・「内容充実!!」
訳者の言葉(裏表紙)「幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。だがそうは悟れるものでない。この悟れない人間を悟れないままに、幸福の夢を追わせつつ、救済しようというのである。人生はこの意味で、そのまま喜劇である。戯画である。ユーモアである。したがってこれを導く人生論も諷刺的、ユーモア的にならざるをえない。本書は厭世哲学者といわれる著者が、豊富な引用文と平明な表現で人生の意義を説き幸福を教える名随筆『処世術箴言』の全訳である。」
この本の小ささからは想像も出来ないほど内容が詰まっています。特に第四章の「人の与える印象について」と、第五章の「訓話と金言」は是非読んでみてください。
第四章は人の目を気にしがちな人にお勧めです。(と言っても気にしない人は少ないと思いますが)日々、私たちは多くの人の中で生活する中で、他人の目に映る自己を構築し、一喜一憂していることが多々あります。しかし、果たしてこの事に意味があるのか?この決断は精神の貴族への第一歩だと思います。
第五章は正に処世術に関する箴言です。様々な状況における処世術を53のエッセイの形で書いてあります。赤線を引きながら読むことをお勧めします。
この本を何度も何度も読み、赤線を引っ張り、本がボロボロになるにつれ、あなたの人生の大切な宝物になるはずです。ちょっと言いすぎましたが・・・難しい所もありますが、全体的に読みやすい文章です。原型である文も良いのでしょうが、訳者である 橋本文夫さんの訳も素晴らしいと思います。読ませる文章です。老若男女に勧めたい本です。
・「おしゃれな表紙」
知的好奇心を満たすのは当然のことながら、幸せといわれるものの多様性、孤独の価値など、様々なものが学べると思う。しかし、私自身が一番学べたことは、人に対する洞察力。人は何に突き動かされ、どういうものに翻弄されるか、この答えが分かるとき、人に対する理解が生まれる。そういったヒントに一番多く役立った。
・「参考書として」
必ずしも、著者の言う「幸福論」が現代の我々に当てはまらない。「人生は何ものにもあたいしない。人生にあたいするものなど何もない」と、言ってしまえばそれまでだけど、人生に微々たる影響を及ぼさぬものもないので、あなたに通ずるものを、拾い上げてください。
時代を超える(部分の)考え方もあるから、今に残っているわけで、そこが古典の良いところなのですから。
・「鋭い皮肉と高い知性」
本書では、いきなり緒言から、幸福な生活というものを否定している。
《さて人生がこういった生活の概念に合致しているかどうか、ないしせめて合致することがありうるかどうかというに、この問いに対しては、読者もご存知のとおり、私の哲学は否と答えるのである。》
それでもショーペンハウアーがこのような本を書いたのは、世間にはびこる「偽りの幸福」への幻想を破壊するためだったのではないか。
《愚鈍な人間であってみれば、社交よ芝居よ遠足よ娯楽よと、いかにひっきりなしに目先が変わっても、死ぬほどつらい退屈は、どうにも凌ぎがつかない。貪欲で嫉妬深い邪悪な性格は、巨万の富をいだいても、満足はしない。けれども精神的に優れた非凡な個性を絶えず楽しむ人ともなれば、一般人の求める享楽の大部分は、全くなくもがなの享楽であり、むしろ煩わしくうるさいばかりである。》
・「厭世家?とんでもない!彼はリアリストだ!」
何かというと、彼の著作には、『厭世哲学家の透徹した云々...』と紹介されています。でも実際はどうでしょうか?哲学史上では、傍流である、彼の哲学や著作に縁があった人は、皆さんそれぞれ、いろんな経路を経て、ショーペンハウアーに辿り着いたのだと思いますが、私事、三度ふられた恋人(同じ人に3回!(苦笑))に、言われた一言、『あなたからはショーペンハウアーを連想する』で、彼の著作に行き当たることになりました。はい。(本作品は3冊目)本来的には、内容に即したはずの装丁(表紙の爽快な青空と白い綿雲!)が、何か逆説的、反意的にも感じられ、また、文字を大きめに改版してくださった、出版社や装丁者のセンスにも深く感謝したいです。(旧版の装丁ではちょっとねぇ...)最初はよく理解できなくても、夏の公園の木陰で蝉の声を聞きながら、読んでいるうちに、わかってくるから(元より彼の文章は破綻が無く文学的だと評価されている)読むことも、『稽古』や『訓練』なんだなと、再認識させられます。(他の著作では本を読む行為をこき下ろしてたりするのだが...)適当に開いたページから溢れ出る、その内容の奥深さ、比喩の普遍性、多岐にわたる説教がありがたく感じられてくること然り!スピノザあたりに同じこと“言われる”と『レンズ磨きふぜいが何を言うか!』と、腹が立つけど、ショーペン爺さんに言われると、納得せざるを得ないこの説得力!“はねっ返り”で、背丈に見合わないプライドで自己嫌悪になったりする人は、みんなショーペンおんじが好きになります!(こんな骨っぽいじーちゃん(男性)今時居ないもの。)
・「詩人ニーチェは読みやすい!」
ニーチェは専門家たちには余り評判がよくないらしい。論理的な飛躍があり、矛盾したことも平気で語っている、というのだ。だから解釈も実に多様だ。ヒトラーの誤読もあったし、「神を殺した」筈の彼の思想をバネにして、キリスト教を立ち直らせようとする動きもあった。ーー解釈が多様だというのは文学作品ならむしろ好ましいことなのかもしれない。だが、理論的な思考がこうであっては困る。数式に答えが複数あったりしたら、これはもう数学ではない。だから本当にニーチェには、哲学者としては致命的な欠点があるのかもしれない。
でも、ニーチェは詩人でもあった。というより、私は彼が論理的なものを軽視したとは思わないが、彼はそれ以上に詩人だったのだと思う。「ツァラトゥストラ」などはまさに詩人の手になるものだ。「超人」だの「運命愛」だのなかなかのキャッチコピーだし、ちょっと劇画調すぎてこちらが気恥ずかしくなるくらい。
専門の哲学者たちはともかく、ニーチェの文学者たちからの受けはいい。これは文学書ではない、とわざわざ註を入れて「ツァラトゥストラ」を必読書に挙げている文学者の数は知れない。「ツァラトゥストラ」は文学書として読んで一向に構わないと思う。それに、--こんなことを書くと怒られそうだが、ニーチェほど読みやすい哲学者はいない。
・「数学が苦手のニーチェ」
ツァラトゥストラの翻訳は何種類も出ているが、詩として訳されているのは手塚のこの本しかないのではないだろうか。もしあるならば、川原栄峰の訳も見てみたいものだが。
冒頭のエピグラムの訳を読むだけで、哲学屋さんたちに詩を訳す資格があるかすぐに知れる。
永劫回帰について、この真理の根拠として、ニーチェは元素の種類が有限であるのに対して時間は無限であることをあげている。永遠の時間の流れのなかでは、いつか同一の元素の組合せが生じて同じことが繰返されるというのである。永劫回帰の表象として、幼いころ耳にした神秘的な犬の遠吠えの記憶を提示するなど、ニーチェの詩人としての腕は確かではある。
しかし、遠山啓は「数学入門」だか「無限と連続」だかで、0と1のたった2種類の数字でさえ、同じ繰返しを出さずに無限に並べられることを証明して、永劫回帰の説は数学的にはなりたたないとからかっている。
プフォルタ学院でのニーチェの成績記録によれば、特に数学に弱点ありとのこと。
・「女だらけの世界で育ったニーチェ」
ニーチェは、私にとって「感化剤」でした。特に本書は近くの本屋などで普通に置いてあるので、手に入りやすいです。私がニーチェの本を初めて読んだのは本作ですが、すんなり入れました。その後ニーチェに興味を抱いて、哲学全体に関心が湧き始めたのですが、今ではニーチェは私の中で死んでいます。ニーチェの問いかけは、20世紀への予言でもあり、後のフーコーやデリダやバタイユなどのフランス哲学者にも影響を与えましたが、今現在どのような評価がニーチェに与えられているか、多面的に把握した上で、ニーチェという一人の人間を理解すべきです。そうでないとナチス政権下のヒトラーユーゲントと同じように、ただ「闘争的な自己愛」を育むだけの書になってしまいます。ニーチェは文学者の必携だそうですが、哲学的にはもう既に古いということを知ったほうが良いでしょう。ちくま文庫からも「ニーチェは今日?」という本が出ていますし、ニーチェの解説本は日本だけでなく、世界的にも星の数ほどあります。また、倫理の教師が高校時代言っておりましたが、ニーチェ哲学は若者受けしやすいのも事実です。何故なら、「厭世」「闘争的」「自己超克」「既成価値の破壊」といった如何にも10代後半から20代前半が好みそうなキーワードがいたるところに散在しているからです。ニーチェは師ショーペンハウエルと同様、厭世と格闘した哲学者ですが、文体から溢れ出ている熱気は、まるで大江健三郎の「セブンティーン」に登場する左翼少年の魂さながらです。私はニーチェから哲学に惹かれましたが、ニーチェの偶像は、真にニーチェを知るのであれば、打倒されねばなりません。
・「何に苦しみを抱いたのか」
「永劫回帰」「非同情」「超人思想」はとても大切な考えなのですが、紋切り型ですべて語られるのは彼に失礼だと私は考えています。思想が生み出される背景には、絶対にその人間が苦悩した問題意識から発せられるものです。人の立場にたって考えることは不可能です。けれども、他者から理解されるうえで、もし苦悩して生み出されたものがごみのように扱われているとするならば、それはおかしなことだと私は考えます。彼と同じ苦悩を味わうことはできません。人間はそれぞれの実存に根ざしているからです。けれども問いに直面し、考えるという点ではみな同じです。「何に苦しみを抱き、そう表現しなければならなかったのか」そのことに私の関心は向けられています。模範的価値・理想的価値を知る人間は狭隘な人間自身・自分自身を信仰しているにしかすぎない、したがって人間はある決められた定義を与えられた、またある枠組みで括られるような人間として存在するのではなく、人間は人間を超え出る存在だということです。「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗りこえられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り越えるために何をしたか。およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り越えて、より高いものを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮の引き潮になろうとするのか。人間を乗り越えるより、むしろ獣類に帰ろうとするのか」人間は神という不定形で超越的なものから出発するのではなく、人間自身を地盤において今ここにある人間自身から出発することを要求しているということを忘れてはいけないと思います。
・「机の上に常備したい本」
とても素晴らしい直感に満ちた本です。つまらない論理で解説することははばかられます。新たに日々の生に「さらにあらたに」向かう勇気を与えてくれます。本書に触れると日常に疲れた心にインスパイアするものがあります。永劫回帰というとてつもない観念、でもそれはもしかしたら、人は人生の中で何回か感じていることであると思います。机の上に常備したい本です。
・「値段で選ぶならこっち」
内容の評価は他の方々が色々と書いているので、私は本書の翻訳の評価を少ししたいと思います。本書は1940年に初版発行らしく、文章のところどころに古さを感じ、日本語の翻訳をしばしば行わなければいけない感じでした。訳が悪いわけではないのでしょうが、あまりこういう本に慣れていない凡人の私にはほとほと読みづらく、同じく岩波出版の善悪の彼岸も読みづらかった印象です。少し高いですが筑摩学芸文庫の道徳の方が読みやすかったと私は思いました。筑摩の方は善悪の彼岸も一緒になっています。値段なら岩波、楽に読むなら筑摩かな?と思いました
・「『ツァラトゥストラ』の前にまずはこれを。」
僕は研究者ではありません。ニーチェを「勝手読み」する一学生です。
恐らく、ニーチェで最も有名な本といえば『ツァラトゥストラ』になるんだろうと思います。しかし、友人たちにその感想を聞くと反応は二様に分かれると思います。1.「読みきったがわからなかった」2.「読みきらずに挫折した」何を隠そう僕自身も、これと同様の感想です。
しかし、この本は「何となくわかった気」になって、「最後まで」読み進めることが出来ました。特に第1章は好きです。道徳の起源について「よいと悪い」について、論ぜられています。ユダヤ教の成立過程など、印象的な議論が読後かなりの時間がたっても忘れられません。「弱者」がどのようにして「宗教」を造るかが「よくわかった気に」なりました。
「神は死んだ」という命題とともに開始される『ツァラトゥストラ』を読むにあたって、ニーチェは宗教について何を考えたか、何が「神」を殺したのか、『道徳の系譜』においてはよりわかりやすく議論されていると思います。
・「道徳について」
第一章では、善と悪の概念と、良いと悪いの概念は全く違うという事、第二章では、道徳に用いられる「良心」は、よい者ではない事。第三章では、哲学者と僧職者の禁欲主義は全く違うという事。こう言った事柄をとことん追及しています。道徳と言う者は、完全な一つの洗練されつくした道徳など無く、
有るのは個人個人が好き勝手に、創り上げた欲望に過ぎない。つまり、現在の道徳が最高の道徳である事はありえない。必要な言葉はいつも有害に聞こえるという事。これは、今現在の日本人にとって切実な問題ではないでしょうか?高貴な日本人に生まれた苦しさに、貴方は気づいていますか?苦痛に対する感受性の高さは、その個人の才能に比例しています。今、日本人にとってニーチェはあまりにも必要な道徳なのではないでしょうか?試しに、ニーチェの言う、高貴な人間とこれまでの日本人を比較して見てください。
・「感覚的にはこんな感じでした」
道徳的であることがあなたをあなたの生から遠ざける何者かによって課された正義は果たしてあなたにとって必要か?あなた自身の内面から生じる正義ではなくてあなたではない何者かの正義に身をゆだねることが果たして生きているといえるのか?あなたはまずあなたの正義を生きねばならないそうすることによってこそ生の輝きを垣間見ることが出来るのだから
・「言葉の深さ」
ニーチェの諸作品の中でも、最も道徳批判が前面に出ている著作です。しかし、ただ「世間(の欺瞞)の批判」として読んでは、ニーチェの意図を見誤ってしまうのではないでしょうか。この著作の末尾、最後の断章(箴言)には、もはや道徳批判はありません。ここでニーチェは、苦しみそのものは問題ではない、「何のために苦しむか」との問いに対する答えの欠如が人間にとって問題なのだ、と語ります。「人間は、この最も勇敢で、最も苦しみに慣れた動物は、苦しみそのものを拒否したりはしない」と。これは人間の本質を言い当てた言葉であり、しかもそれ以上のものでさえあるように思われます。
・「ぐいぐい読めました」
カントの哲学について、個別の詳細な議論はあまりせず、全体を通した基本的なものの見方という観点から概説しており、大変わかり易い入門書になっています。この本を読んだ後、別の入門書を読んでみたけど、全体の構成・バランスなど、こちらの方が圧倒的に優れていました。
のっけから、人間理性の限界、理性は無限を把握できないという議論から始まり、宇宙には量がないという結論にあっという間に至ったとき、初めてカント(の入門書)に触れた私は、まさに驚天動地。宇宙は量の概念で図れない。だから、時間や空間は人間の主観的な認識の形式でしかない。そこからカントの哲学が整理されていきます。
難解とされるカント哲学の解説ですが、用語も丁寧に解説してあり、混乱することもありません。何よりも、基本コンセプトの把握に徹しているところが、私のような素人にはお勧めです。また私は、一貫して展開していく論理に引き釣りこまれて、どんどん読み進めることができました。
でも色々な命題に関する証明は、本の性格上最小限に留められています。それゆえ必ずしも全てが腑に落ちるものでもありません。ですので、カントの哲学について自分なりに評価していくためには、さらに読書を進めていく必要があるだろうと考えました。
・「一般人の入門書になってない」
カントに限らず、哲学が敬遠されるのも無理はないな~と思いました。哲学における問題の考察の仕方がどうしてもこじ付けのように思えるのです。例えば、カントが行った理性批判の根拠として、「同一の理性が相反する2つの命題を同時に証明している場合、両方の命題の真理性が失われ、それどころか真理の最高決定機関であるはずの理性がその原因だから、理性能力そのものに疑いがかけられる」とあります。その具体例として、「世界に時間的な始まりがあるかないか」が挙げられ、どちらも理性で真であると証明できるとされています。「ある」の証明において、「もし始まりがないとすれば、どの時点においてもそれまでに無限の時間が経過していることになる。無限な時間とは完結しえない時間である。ところが我々は現在という完結した時点においてある。従って、これまでに無限の時間が過ぎ去ったということはあり得ない。すなわち世界は始まりを持つ。」とあります。なんで現在が完結した時点と言えるの?未来に向かって無限に伸びてるんでは?数直線上のゼロの位置に現在はあるんじゃないの?「ない」の証明においては、「始まりがあるとすれば、世界の始まりの前に何も存在しない空虚な時間があったことになる。空虚な時間からはおよそ物が生起することは不可能である。無から有が生起するなんらの条件も見出せないから。ゆえに世界は始まりを持たない」とあります。「無から有は生じない」は、経験上そんな気もしないでもないですが、絶対そうだなんてどうして言えるのか?結局時間の始まりの有無は証明されていない気がします。そんな一般人の疑問に答えることなく著者はどちらも理性により証明されていると前提して、そのような理性の「二枚舌」を「ショッキングな事態」とし、さらに「いっそうショッキング」なことに、理性の結論として世界は実は存在していないことになる(とカントは考えた)と続け、さらにカントの全体の説明に入ります。もうこの辺で私にはついて行けません。理性なんて、本人の意思や経験や状況に応じて如何様にでも使える単なる「道具」なんじゃないですか?そのような理性の不確実さを発見ないし主張したのがカントの偉大な点だとしたら、大したことないな~と思うのが一般人だと思います。結局本書は一般人を対象とした入門書ではなく、一通り哲学を勉強した人が読んで自分の知識を再確認して自己満足に浸る程度のものでしかない。
・「カント哲学の世界に入る格好の案内書」
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・「いい入門書だと思いました。」
著者の石川文康さんは、カントの「批判哲学」のキーワード(悟性、理性、判断力など)をわかりやすい言葉に置き返して、説明してくれています。語源から説明してくれているので、理解しやすいです! でも、カントをまったく知らない人は、中島義道さんの『カントの人間学』(講談社新書)をまずは読んでみるのがオススメです。なぜかというと、石川さんの本では、カントの自伝的な要素について書かれていないからです。 さらに言えば、カントの『純粋理性批判』(岩波文庫)を買って読んでみて、「こりゃ~、一人じゃ読めないよ」と思ってから、この『カント入門』を読むと、「オゥーわかりやすい」ってより感じることができると思います!!
・「類似の本はたくさんあれども・・・」
実は、類似のカント解説本がたくさんあるなかで、カントの宗教論について言及されているものは少ない。まず、『純粋理性批判』についてのみ着目する人は、カントを形而上学の破壊者としてのみ位置づけてしまう。それは間違っている。ヴィトゲンシュタインを論理実証主義者と同一視するようなものだ。それを乗り越え、カントはライプニッツ=ヴォルフ的な完全性をひっくり返し、自由の意味を変え、それを道徳と結び付けたという意味合いで『実践理性批判』に着目するだけでも、難しい。しかしながら、カントの宗教批判『単なる理性の限界内の宗教』にまで言及されている入門書はさらに珍しい。というよりも、ほとんど稀有である。それを織り込み、入門書としてきっちりと書き上げているこの本はえらい。
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