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▼西洋哲学入門:人気ランキング

自省録 (岩波文庫)自省録 (岩波文庫) (詳細)
マルクスアウレーリウス(著), 神谷 美恵子(翻訳)

「「自分自身に」」「主体的な生き方」「素晴らしすぎます。」「誰が手にとっても愉しめる本。」「人が根底に持つべき思想」


方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫) (詳細)
デカルト(著), Ren´e Descartes(原著), 谷川 多佳子(翻訳)

「デカルトとのかいごう・・・我思う故に我あり・・・とは?(;'Д`)ハァハァ」「近代学問の考え方の原点がここにある。」「哲学は、涙をこらえるくらいに、むずかしい」「野田訳と並ぶ名訳、しかし・・・」「我思う故に我在り」


「原因」と「結果」の法則2「原因」と「結果」の法則2 (詳細)
ジェームズ・アレン(著), 坂本 貢一(著)

「1の方が」「書籍欄は信用できぬ」「この世界はすべてあなたの心の中の出来事です。」「幸福とは」「なんだか気分が優れない時。」


ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2 (詳細)
ニーチェ(著), Friedrich Nietzsche(原著), 氷上 英広(翻訳)

「本書は文学の「世界遺産」です。」「ちょっとおかしいよ」「現代人への挑戦状」「初哲学」「ニーチェの最重要著作」


人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫) (詳細)
セネカ(著), Lucius Annaeus Seneca(原著), 茂手木 元蔵(翻訳)

「目からウロコ!」「生々しき生」「極論」「毎日カバンに入れておく古典的成功哲学書」「2000年近くも昔から…」


論理哲学論考 (岩波文庫)論理哲学論考 (岩波文庫) (詳細)
ウィトゲンシュタイン(著), 野矢 茂樹(翻訳)

「超高度な思考ゲーム、または哲学的思考の素材集」「明快、明晰な邦訳」「わかろうがわかるまいが、それぞれが勝手に読めばよい」「こんなのわかりません」「参考書もあります。」


それでも人生にイエスと言うそれでも人生にイエスと言う (詳細)
V.E. フランクル(著), Viktor Emil Frankl(原著), 山田 邦男(翻訳), 松田 美佳(翻訳)

「人生は生きる価値があるか」「各自が人生の意味を問われる著作」「フランクルの心は永遠に語り継がれる」「凌駕させられた数少ない書」「生きる意味を問う古典的名著」


ニーチェ入門 (ちくま新書)ニーチェ入門 (ちくま新書) (詳細)
竹田 青嗣(著)

「癖がなく、読みやすい入門書。」「ニーチェをより深く知るために」「すばらしい!!」「こうして殺されていくのか?」「いい本ですね。」


ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3 (詳細)
ニーチェ(著), Friedrich Nietzsche(原著), 氷上 英広(翻訳)

「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」「詩的な哲学表現」「永遠回帰の誘惑者」「ここに書かれていることは、即日常生活に応用可能である。」「誰にでも読めるが誰にも読めない本。うーん納得」


幸福論 (岩波文庫)幸福論 (岩波文庫) (詳細)
アラン(著), Alain(原著), 神谷 幹夫(翻訳)

「翻訳がどうも」「活動の苦痛こそ幸福であると」「ヨーロッパの常識」「僕がこれまで読んだ本の中で間違いなくベスト5に入ります」「即効性があります」


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▼クチコミ情報

自省録 (岩波文庫)

・「「自分自身に」
ローマ帝国五賢帝の一人、哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの文集。その思想は「ストア学派」ですがこの本は難解な形而上学について述べたものではなく、自分自身を省み、自分自身を励ますために、自分自身に宛てて書かれたもので、出版の意図はなかったといわれています。大帝国の指導者としてその重積を果たしながら、一人の人間としてより善く生きることを目指す「ストイック」そのものの姿に深く心を打たれます。そしてこの本は迷ったときや、くじけそうになったときに僕を何度も励まし、勇気づけてくれました。僕が好きな文章はこれです。「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されているうちに、善き人たれ。」

蛇足ですが、訳者の神谷美恵子さんにも大変すばらしい著作があります。この本を読んだ方、興味を持った方で神谷さんの著作にふれたことのない方にはぜひ手に取ってほしいと思います。

・「主体的な生き方
わたしが必ず真っ先に開く箇所はここである。「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。」

大人になりきれない大人。この本は、そういった大人たちが出会って、関係し、影響する世界で、いかにして物事を運び、それぞれの目的に向かって進んで行くかの明確な指針を与えてくれる。進んで岩頭に立とうとすれば、何を恐れることもなくなるのである。

自分がこの難解な本を理解できているとは決して思わない。しかし、例えそれが自分なりのありきたりの解釈であっても、立ち停まったボクをまた歩かせることになる。そして、その歩かせてくれる者は実は他ならぬ自分であるということこそが、この本の真骨頂といえるのである。

・「素晴らしすぎます。
これほど素晴らしい本は他にないと思います。私は、辛い時、うれしい時にこの本を買ってしまいます。なので家中、何十冊とこの本があります。他人にぜひ紹介したいし、でも紹介するのはもったいないしといったような、とっておきの本なのです。

・「誰が手にとっても愉しめる本。
アウレーリウス(121~180)はローマ皇帝で哲学者と書かれています。

この本は彼が己の自制や自己確認のために個人的にこそっと書いていた手記のようです。だから他人に読ませるつもりのない独り言のようなものかと。

たまに見る論理の破綻からはローマ帝国皇帝の重責をかいま見れるので興味深くそしてまたそれらの言葉からは大きく勇気づけられます。

ページを適当に開くと必ず面白い言葉が1つは載っている本です。彼の日誌に書かれた1つ1つの自省はむしろ決意に近い短文です。

短文の集まりなので本が嫌いな方にも読みやすい本だと思います。

マルクス・アウレーリウス自省録から一部改変しながら抜粋

「私は暇がない」と人に言ったり緊急な用事を口実に対隣人関係のもたらす義務を避けぬように。

無用の多くの悩みはきりすてることができる。それは君の主観にのみ存在するからである。

波が絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている。

・「人が根底に持つべき思想
マルクス・アウレーリウスと言えば、歴史の教科書に必ず出てくるローマ皇帝ですが、哲学者の面も持ち合わせた人物でもあり、深く自分を内省し、その内容を折に触れ書き残したものが本書の元となっています。本書は現代でも読み継がれている名著ですが、いかなる人も長大な歴史の視点から眺めれば一瞬しか生き得ず、そのことは人々の記憶の中にとどまることは無く、そのような地位や名声などに拘っても意味の無いことで、自分の領分をわきまえて役を果たすことが重要なのだ、とマルクス自身は書き残しています。また、自分の中にある指導理性を追求し、他人のそれもまた尊重する立場において、周囲や環境などへの不寛容を厳しく戒める立場をとっています。本書は神谷氏の深遠な訳で構成されていますが、50年代に訳されてから既に半世紀が過ぎており、版を重ねて今なお読み継がれている名訳書でもあります。是非一読いただいて、人生の羅針盤としていただきたいと思います。

自省録 (岩波文庫) (詳細)

方法序説 (岩波文庫)

・「デカルトとのかいごう・・・我思う故に我あり・・・とは?(;'Д`)ハァハァ
(;'Д`)ハァハァ おいらは夢の中で デカルトと出会ったことがある。そいつは親しそうに ホッカルさんに話しかけてきやがった。「なぁ、君、方法序説を読んでくれたかい?」おいらは その時、読んでなかったので「何のことだ?」「読んでくれ。君なら理解できるだろう」

おいらはその後、図書館で方法序説を読んでいった…。なるほど…。我思うゆえに我あり…か…。思い込む事によって デカルトというのは存在する…。だから、おいらの夢に現れたんだな…。あの亡者め…っ?!おいらが本を読んでから3ヶ月後、またデカルトが現れた。「よう。ホッカル。本を読んでくれたか?」「ああ読んだよ。いささか古臭かったが、当時の知識人レベルとしては上々の出来だったよ」「そいつぁ手厳しいな…。さあて 感想を聞かせてくれ」

「デカルトは デカルトの存在を思う事によって存在する…。おいらがおまいの存在を思ったから おまいはそこに存在した。それがおまいの能力だ。おまいを思わなければ おまいは消える」

デカルトは「くっくくく」と言いながら消えていった。今度は 別の若者を探していることだらう。それ以来、デカルトの姿は見ていない。おいらがつくりだした幻影だったのか…。本物の哲学者だったのか。今となっては 誰にも分からない…。だが、デカルトの書いた著作は偉大であった…。そう感じずにはいられない。

・「近代学問の考え方の原点がここにある。
 この本は今から370年ほど前に著されたものですが、近代学問思想の原点が示されている古典です。 もともと、当時のいわば先端科学技術に関する主著である「屈折光学」「気象学」「幾何学」の序として著されたもので、デカルト自身が、「この序説が長すぎて一気に読みきれないといけないから六部に分けてある(そんなに長いとは思えないのですが)」、と書いてあるほどですから、何が書かれているかは比較的容易に理解できます。 しかし、その内容は、広く「何が真理で何が偽物なのか」について考えるための思想書で、その中身は、近代哲学の原点を含んでいるともいえると思います。 本書の性格上、デカルト思想のダイジェスト的なものですので、その思想をさらに深く理解するには、或は、書かれていることの根拠を知ろうと思えば、「省察」などデカルトの別の著書を読む必要があると思います。 例えば、数学を用いて物理学を研究すると何故真理に到達しうるのか、とか、何故(誠実な)神が存在すると信じるのか、とか、諸々ですが、その場合においても、結局デカルトは何がいいたかったのか、或は逆に、そう考えようと思ったのは何故なのかを知るための、ガイダンスとしても役立つと思います。

・「哲学は、涙をこらえるくらいに、むずかしい
  ウィトゲンシュタインは、哲学のむずかしさを「何かを断念する困難さ」だと言っている。彼のことばでいえば、「哲学は、涙をこらえたり、怒りをこらえたりするのと同じくらい」むずかしい。

 そしてこれは哲学書の「難解さ」とはてんで別の話だ。何故哲学書が「解り難い」かといえば(実に多い日本語未満の翻訳を別にすれば)、他の哲学書をやっつけようとするからだ。そのために自分以前の哲学の要約や曲解、批判や中傷を、哲学書の中に組み込むことになり、うじゃうじゃと入り組んだものになってしまうのだ。

 西洋の中世あたりには、「自分以前の哲学」は、「問題」の形になっていた。あらかじめ「問題」が用意されていて、これらの「問題」を考えることだけが、本当に考えること(哲学すること)とされていた。デカルトはそんなことはやらなかった。そうすることが「哲学すること」だとしたら、そんな哲学を「つづける」ことなどデカルトはしなかった。デカルトがやったのは、「つづける」こととは反対に、「はじめからはじめる」ことだった。 彼は問題についての思考なんかでなく、自分がどうやって「本当に考えること」をはじめたか、どうやって「はじめる」に至ったかを書いた。「どうやったか」が彼の哲学であり、それ故にこの書には「方法」の名が与えられるだろう。

 デカルトの「方法」は「難解」ではない。そして同時にそれは涙をこらえるとの同じくらいに「むずかしい」。なんとなれば、デカルトの懐疑は、「はじまり」にまで一旦立ち戻るために、うざったい伝統的哲学はおろか日頃親しみ慣れたものごとについてまで、不断の断念を(それは同時に決断でもある)を要求するからだ。

・「野田訳と並ぶ名訳、しかし・・・
坪内、福田、小田島、松岡、河合など、連綿と続くシェイクスピアの名訳に比べて、哲学書には名訳が少なかった。長谷川訳ヘーゲルの登場などで事態は少し変わりつつあるが、デカルト『序説』の野田又夫訳もまた稀有の名訳である。そこに、歯切れの良い日本語で新たに谷川訳が加わった。谷川訳は、口語脈が加味されており、我々の日常の言葉遣いに近い。『序説』は、『省察』や『情念論』に比べて、一般読者を想定しているから、これは歓迎すべき事態である。が、問題がないわけではない。それは、我々自身にぴったりくる日本語自体が変化したために、日本語の「腰が弱くなった」という一面である。谷川訳は、「こんな」「たぶん」等の口語の他に、「ことだ」「ほどだ」「からだ」のように「・・だ」を多用する。しかし一定のまとまりの後には、当然、座りのよい「である」が来て、書き言葉と語り言葉が混在する。これは我々の感覚にぴったり来るだけ、その分「ねばり」が失われる。

有名なle grand livre du mondeの一節を比べよう。「こういうわけで私は、成年に達して自分の先生たちの手から解放されるやいなや、書物の学問をまったく捨てたのである。そして、私自身のうちに見いだされる学問、あるいはまた世間という大きな書物のうちに見いだされる学問のほかは、もはやいかなる学問も求めまいと決心して・・」(野田訳)。「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問[人文学]を放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し・・」(谷川訳)。谷川の「世界という大きな書物」という訳は素晴らしい。が、文の流麗さという点では野田訳か。

・「我思う故に我在り
「我思う故に我在り」は、あらゆるものを疑ったとして、その疑っている自分自身を否定することができないものとして残ったという消去法的な考え方だと理解しています。それ以来、この考えを超える考えに至っていません。ただし、天上天下唯我独尊と何が違うかは解っていません。きっと、デカルトを批判している人の書物を読まないと、超えられないのかもしれません。哲学が専門ではないので、とても超えられません。

方法序説 (岩波文庫) (詳細)

「原因」と「結果」の法則2

・「1の方が
個人的感想ですが、1(「原因と結果の法則」)の方がすべてにおいて評価が高いです。1を読んで、どうしても読みたい方は読むべきでしょうが、映画でもゲームでも、何でもそうですが、1が好評で2→3→4と発表されていくと質が落ちるという法則があると思うのですが、まさにそんな感じです。質が悪いというのではないですよ。当然のことながら、書いている内容は異なります。ですが、2、3と読むのなら、1を3回読んだほうがいいのかなと思います。

・「書籍欄は信用できぬ
 いつも思うことだが、書籍広告は本を必要以上に誉めすぎである。それは売れるためには仕方がないことなのだろうが、せっかくのすばらしい本を台無しにするくらいだったら、うそ広告なんて書くな!いきなり批判をして申し訳ないが。 ▲朝日新聞の書籍欄には「第一作目を越える!」と書いてありましたが、絶対にありえない。一作目のほうがすばらしいです。買うなら一作目ですね。 一作目が気に入ったあなたならば、二作目も買ってよろしいのではないですか?しかし、内容は一作目以下だと思います。 書籍欄は信用できぬ。

・「この世界はすべてあなたの心の中の出来事です。
妻がこの本を買ってきた。「いい本よ。読んでみたら?」彼女は自分が読む前に僕にその本を薦めてきた。

僕は最初はパラパラと飛ばし読みした。その時は特に心地よい本とは感じなかった。1週間程過ぎて、なぜかもう一度最初から読んでみようと思った。2,3日であっという間に読み終えてしまった。探していた物がやっと見つかった。真実だ。

母親に「この世界はすべてあなたの心の中の出来事です。」と伝えた。「ウッソー!そんなことないわね。」一笑された。

読者の心の世界のことである。わかる人にはわかる。感性が大切である。過去にとらわれずに素直に読むことが大切である。

・「幸福とは
もしもいま、環境の奴隷になっていると感じているとしたら、それは外側の世界に向けて自分のパワーを与えている状態だ、というところが印象的。抽象的なことばかりでなく、どのように考え、何をすればいいかが書かれている。この本を読んで、静かで内面の強さを持つ人に憧れる。詩はなくてもいいように思った。

・「なんだか気分が優れない時。
なんだか気分が優れない時。悩みが絶えない時。なんだか心が重たい時。すごくすごくつらいとき。

本書を紐解けば、きっと心がほぐれてきます。私がそうでした。きれいごとじゃないんです。それが真実なんです。生きるってすばらしい。人のために生きるってすばらしい。そんな本です。

「原因」と「結果」の法則2 (詳細)

ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2

・「本書は文学の「世界遺産」です。
ニーチェを読む効用は「自分自身を元気づけられる」、「リスクをおかす勇気をもてる」、「物事の本質をつかめる」等にあるかと思います。特に本書は比較的読み易く、万人が認める彼の事実上の最高傑作ですので、ニーチェを初めて読む人に特にお薦めします。

ニーチェ思想の重要テーマの1つでもあります「超人思想」ですが、どこか経営学者PFドラッカーのいうところの「自らをマネジメントする知識労働者」というコンセプトにも通じるところがあるのではないか、と最近私は感じています。

巻末の解説にありますように「ニーチェを可能な限りわかりやすく、しかも解説や注抜きで正確に趣旨を伝えたい」という訳者の強い意思が伝わってくる秀逸な翻訳に仕上がっています。

全ての読書家に、つまり、万人に本書をお薦めします。

・「ちょっとおかしいよ
皆さん、この訳は判りやすくていいだとか、最高だとか書いてあるけれど、私はとてもそうとは思えません。

判りやすいのは同感。読みやすいのにも同感。

訳者が注訳なしでわかるよう努力したのもまぁいい。

ただ軽すぎる。あまりにも言葉や言い回しを簡単にしたあまり完全な散文になっている。それをニーチェの文章と履き違えてしまっては困る。

本当に深く読みたいなら読みやすいだけではダメです。あれで理解した気になるのは間違いです。

お勧めは新潮文庫の竹山道雄訳。

多分、訳者の解釈云々などの根本的な問題でなく、哲学であり、小説であり、詩であるこの作品の内容をうまく表現できていない訳者の文章力不足かと。

はっきり言ってヘタです。

・「現代人への挑戦状
 何年かで1番感動した1冊です。 ニーチェの作品を読むのはこの本が初めてでした。全く作者についての知識がなくても、充分に醍醐味を堪能できたと思います。

 読後には、型にはまれぬ事を恐れず生来の情熱や欲望を持ってもっと激しく生きられないのか、と、作者から挑戦状を渡された気分になりました。

 メディアや周囲が言う常識や戒律が、どこか冷え切って感じる方、創作に携わる方、ニヒリズムに囚われている方、などなどに是非お勧めしたい本です。

・「初哲学
ニーチェの名前は知りつつも、‘哲学は難解’というイメージから触れずにおきましたが非常に読み応えがありました。

半分ぐらいしか解っていないと思いますが、彼の思想を知る事ができ、力が沸いてきます。超人・永遠回帰するための指南を書き連ねてますが、全てを理解できなくとも、「自身を灰にするほど焼き殺さねばならない」(新しい自分に生まれ変わり続けよ、という意味だと思う)や「勇気こそ人類の先史学」と言う様な文など、電撃をくらった様に体全体に染み渡ってきます!この様な一文が随所に見られます。

僕のような哲学を知らない人でも、自分からアクションを起こし続けたい人には、共感・感動するところがいっぱいあると思います。これから他の著作を読んでいこうと思っています。

・「ニーチェの最重要著作
まず、編集方針に好感が持てる。煩雑な訳注は一切除き、なるべく訳文だけで分からせることができるよう工夫されている。読者は本文に集中し、また自分で思考を巡らすことができるわけである。

この第一部では主に、晩年のニーチェの思想の二大柱の一つである、新しい価値の樹立者「超人」が語られる。ニーチェは「生きるための哲学」、いわゆる「生の哲学」を教える人だ。この散文物語の冒頭で、ツァラトゥストラは形而上的な神の世界を説く者を「幻の背後世界を説く者」として糾弾し、そのような世界は「まことに、およそ存在を証明するのも、また存在をして語らせるのも難い」と叫び、不可知論を展開する(ニーチェは決して無神論者ではない)。『反キリスト者』においてニーチェはキリスト教を「生の敵対者」として攻撃するが、ニーチェの徹底的に生に拘る姿勢、生きる力を伸長することに全てを注ぎ、死の要素を徹底的に遠ざける姿勢は、現代に生きる私達にとっては、ことによると苛烈に過ぎるように思えるかもしれない。

しかし、大切なのはニーチェの思想をそのまま受け入れることではなく、それを自分との関係においてどのように捉え、どのような意味を与えるか、自分の血肉にするかであるはずだ。ニーチェの著作は時間をかけるに値する豊かな素材を提供してくれる。

また、ニーチェは一流の心理学者でもある。散文物語の随所に現れる人間心理への鋭い洞察、辛辣な箴言は、読者を飽きさせない力を持つ。

繰り返し読むに値する書である(下巻に続く)。

ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2 (詳細)

人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)

・「目からウロコ!
良い生き方、意義のある生き方とは・・・?という答えを漠然と探している時この本を購入しました。自分の今までの価値観を根底から覆される内容が記されていました。「目からウロコ」とはこのことです!

多忙を極める人間は愚人、栄華を極めた人物ほど愚人、成功して趣味や道楽に没頭する人間は愚人・・・等々、世間一般で羨望を受けている人物は愚かな人々だと一蹴しているのですから。

人生は短く、他人や仕事に時間を与えることこそ愚かなことであり、賢人は自分の時間を管理し、自由に操ることのできる人物だという理論には、驚きながらも納得させられる部分が多々ありました。

私自身も日常多忙であり、仕事でも評価されていますが、でもそうやって過ぎ去っていった日々を年老いて振り返った時に何が残るのか・・・を想像させてくれた本でした。

今の年齢で、読んでみて良かったです。今の時代にそぐわない点もあると思うので、全てを受け入れる訳ではありませんが、今までの自分になかった価値観に目を開かせてくれた貴重な一冊でした。

ぜひ一読をお勧めします。

・「生々しき生
 本書は、3つの作品から構成されています。

 表題作である「人生の短さについて」に関することを以下述べます。この作品は、より長い時間を生きるとしても必ずしも充実しているとは限らず、それはむしろ短い人生なのではないか、という問いを投げかけています。時間の長さよりも、人生の充実にこそ価値を求めているように思われます。例えば、嫌々仕事をする時は仕事が速く終ることばかりを願い、時間が過ぎ去ることをいたずらに望みます。他方、集中して仕事をする時は、あっという間に時間が過ぎ去っていたということは多々あります。この後者において、その仕事には何か満たされるものを感じるのではないでしょうか。セネカはその実感を求めるように促しているように、私には思われます。

 なお、この時間と実感とについては、ミヒャエル・エンデの『モモ』においても本作と類似した問題が投げかけられているように思います。

・「極論
人生の短さについてを読んでみて。正直期待していたほどの驚きはありませんでした。

時の重要性をひたすらに説くもので、偉人である誰々はこう言っている、皇帝誰々はこう思っていた、という薄い論拠で、説得力に欠ける。時の重要性に偏りすぎて、他とのバランスが取れていないことが、最大の欠点だろう。

孔子の「足るを知る」という言葉の方が100倍、的を射ている。

人間は他人と、どの様に係わるかが重要であり、ひたすら自己の為に時間を費やす事のみが重要ではない。

あくまで私の感想です。

・「毎日カバンに入れておく古典的成功哲学書
 金銭を所有するのを欲することはキリスト教を精神的背景に持つ欧米人にとっては長らく心の隅に潜む罪悪であると捉えられていた。このことは成長と成功を目指す者にとっては一種の心的ブレーキとなりがちなのだが、このストア派に属する哲人は、それについて明快な答えを出している。 すなわち、賢人にとっては金銭を持っていても、持っていなくても心は動揺しないので同じことなのだが、持っていない場合は、節制や欲望を押さえるといった、修練を積む機会がこれ以上は無いが、持っている場合は、そういった修練をすることができるので、持っていたほうが持っていないより良い。要するに富や金銭はたまたま仮に自分に宿る物で、それに対する使い方や意識を磨く修練のきっかけとして使えば良いものである、というのである。 なんともすばらしい解答ではないか!20世紀の初頭にアンドリュー・カーネギーやラッセル・コンウェルらが、金銭を所有していないと自己実現も社会変革もなしとげることはできない、として金銭の所有に対する罪悪感を払拭したが、それに1900年も先立って同様のことを述べていたストア派の卓見には恐れ入ってしまう。 他にも、今一瞬のみが自分でコントロールできる時間で、時間をつまらぬことに奪われないようにしろ、などという考えはオグマンディーノやスペンサージョンソンに影響を与えていると思われる。 毎日カバンに入れ、物事を「どう考えるべきか」について考えてみたいとき開きたい一冊である。

・「2000年近くも昔から…
自分が普段から感じていつつ、しかし表現しようとすると形にならない、モヤモヤとしたものが、本書を読み進むに連れ、形となっていきました。

書かれていること全てに賛同するわけではありませんが、現代においても、そのまま通じるであろうことは、多々書かれていました。そう考えてみると、2000年近くも前から人類は根本的に変化していないのだなぁ、と思いました。

人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫) (詳細)

論理哲学論考 (岩波文庫)

・「超高度な思考ゲーム、または哲学的思考の素材集
訳や注、解説が非常に適切。論理の飛躍、前提知識の必要性、語の省略があるところは訳者が適宜補完してくれているので、論理を一つ一つ、梯子を上るように足場を固めながら上れた。もちろん、完全には理解できないし、曖昧な部分や、飛躍も多い。でも、世間で言われているほど難解で意味不明とは思わなかった。主要な命題は以下の7つ。

1.世界は成立していることがらの総体である2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である3.事実の論理像が思考である4.思考とは有意味な命題である5.命題は要素命題の真理関数である6.真理関数の一般形式はこうである。→(ギリシャ文字とかめんどいから省略)7.語りえぬものについては、沈黙せねばならない

前半は、非常に精巧に糸を紡ぐような世界の要素への分解とその組み立て。

中盤は、世界と論理のgrounding(ウィトゲンシュタインは現代の記号接地問題を見たらどう考えるのだろう?)→ 思考と論理の同一性と、命題の意味について → 有意味な命題、無意味な命題(トートロジー、矛盾)とは → 各要素命題から真理操作によって張られる"無意味な命題"を通しての論理空間の描画 → 個人の経験による要素命題の有限性と、個人の論理空間の限界(→独我論) → 諸学問(論理学・数学・物理学)の命題の特性と、その正体(目から鱗がボロボロ) → それらの世界記述に関する役割(世界の網目の編み方がここで完成)

クライマックスは、倫理や美に代表される超越的な価値の思考不可能性への帰結(さ最後に全てを理解したとき、上りきった梯子を捨てなければならない)

"哲学とは、自然科学ではない(4.111)"、"哲学の目的は思考の論理的明晰化である(4.123)"という自身の命題を地でいくかのように、ひたすら明晰に、世界、論理、思考、自我、生、神秘について語っている。

一週間以上かけてゆっくり読んだので、はじめの方とかけっこう忘れててちょっと間違ってるかも(--;)でも、これが論理哲学論考とういう本の各命題から、脳内に経験として写像され、操作を施されて生じた私の論理空間(思考の限界)なので、あしからず。あと何回かは読み直したい感じ。子供のころにぼんやりと浮かんでは消えていく問いを、論理という道具によってひたすら明晰にしていってる感じ。その意味で、"おそらく本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう"という序文はまったく正しい。

・「明快、明晰な邦訳
~これまでさまざまな邦訳が試みられたが、明快、明晰という点では、断トツにすぐれている。日本語として読みやすく、訳語も考え抜かれている。難解かつ神秘的というイメージばかりが先行していたが、本書の登場でそうした神秘化はかなりのところまで取り払われるのではないか。バートランド・ラッセルの解説をなぜウィトゲンシュタインは拒否したのか、なぜ世~~界を語るのに論理空間や像といった概念を導入しなければなかったのか、といったことも訳者解説や充実した訳注で簡潔に説明しているし、「論理哲学論考」が一種の言語哲学であり、その可能性を極限まで追及した書物であること、後期哲学へ進む必然は本書の中にすでに示されていることなどが、明快に見て取れる。既存の訳で挫折していた人は、ぜひ一読をお進め~~したい。~

・「わかろうがわかるまいが、それぞれが勝手に読めばよい
ウィトゲンシュタインは1889年イギリス生まれ。哲学に論理式や言語分析を持ち込んで、それまで哲学の流れを大きく変えた天才哲学者、だそうだ。なにかの雑誌で某アイドルが愛読書にあげていたので、読んでみた。

で、結論からいうと、やっぱりというか、さっぱりというか、皆目わからん。

後半半分はラッセルの解説文と、訳者野矢茂樹氏の訳注と詳細な解説文である。野矢茂樹氏の訳者解説を読み込んで、やっと、おぼろげながらウィトゲンシュタインが何をいいたかったのかがわかった。ような気がする。

◆世の中は、名前のついたもので出来上がっている。◆であるから「私の言語の限界が私の世界の限界(p114)」である。◆しかも私の言語は私の経験が形作るから、違う経験をもつ他人と決して一致することはない。◆従って全ての哲学的命題はそもそも問う意味をもたない。

当時、ウィトゲンシュタイン29歳、無名。すでに著名な哲学者であったラッセルの解説文がなければ、出版すらおぼつかなかったそうだ。なのに本人はラッセルの解説を評して「自分のいうことを理解していない」と。

彼我の認識の一致を否定しているので、いわゆる独我論である。その説に従えば「論理哲学論考」も原理的に誰にも正しく理解されえない。であればラッセルがウィトゲンシュタインを読み誤ったのもうなずける。

筆者はこれを読んで何がわかったか。

 偉い哲学者でも、後輩のこれまた偉い哲学者のいうことは理解できないのだ。 まして普通の人がわからないのは当たり前なのである。

ということ。

が、これは間違いなく、読み違えている。もしかすると正しく読んでいるかもしれないが、それを証明する手立ては原理的にない。それをウィトゲンシュタインは証明した。

であれば、それぞれが勝手に読めばよいのだ。そこにリアリティがあれば、それがそのひとにとっての正解である。

・「こんなのわかりません
 「論考をポケットに入れる」ということが自己目的の方は放っておくとして、こんなのを理解するのは圧倒的な知識のバックボーンが必要だろう。しかし理解出来なくても圧倒されるような警句は端々に溢れている。この金額で手に入るのは奇跡と思える。 論考自身は半分ほど(150頁)で、ラッセルの解説が30頁、注釈が40頁、訳者20頁という構成になっている。そもそも論考はラッセル(およびフレーゲ)を批判する事から成り立っている。そのためラッセルの反論を載せたのだろうが、ラッセルはウィトゲンシュタインを批判してるので蛇足に感じる。それに較べ訳者の解説は素晴らしい。 訳者は「『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりさせる力を擁している。」と言っているが、ウィトゲンシュタインに感化されて哲学という世界でなく現実世界で論を展開している人も多い。例えば佐藤正美さんの「論理データベース論考」では数学の基礎からラッセルを経由してウィトゲンシュタインに到る流れを解説している。数学者でも哲学者でも(多分)ない人に、それだけの情熱をささげさせる何かがこの本にはある。 ただ、衒学趣味がまったくない人には合わないだろう。

・「参考書もあります。
訳者の手になる、とてもわかりやすい解説書「論理哲学論考」を読むという本があります。あわせて読むと、なんでこんな風に訳してあるんか?という事や、細かいニュアンスも感じられて、面白いと思います。

論理哲学論考 (岩波文庫) (詳細)

それでも人生にイエスと言う

・「人生は生きる価値があるか
人生は生き続ける価値があるのか。その問題に真正面から答えてくれています。人生は生きる価値があるかを問うのは誤解で、人生から自分は何を問われているのかを考えるべきであるというのが、彼の結論のように思う。単なるプラス思考とは違う、人間肯定の哲学に貫かれた、彼の愛の眼差しを感じます。

・「各自が人生の意味を問われる著作
フランクルの著作は論理的でありながら、机上の空論ではなく、アウシュビッツの壮絶な体験がもとになっているところに説得力がある。そこが、あまたある人生論、幸福論などとは一線を画しているところだ。

アウシュビッツでの極限状態のなかで、どうして「人生に対してイエス」と言えるのか。具体的なエピソードを交えたフランクルの話に読者は引き込まれざるを得ないだろう。それ程長くはない本なので一気に読み終える事ができると思う。

この本の中では、「働くことで意味のある人生をおくることができるのと少なくとも同じくらい、苦悩することで、意味のある人生をおくることができる」、「人生のルールは、どんなことをしても勝つということを求めていないが、けっして戦いを放棄しないことを求めている」、「愛されている人間は役に立たなくてもかけがえがない。愛を自分の功績で手に入れることはできない。愛は功績ではなく恵みである」「生きることは、問われていること、答えること」など、金言のような言葉で溢れている。

そしてそれは具体的エピソードを伴い説得力を持つ。

これらの言葉に対しての深い理解を得、そしてそれに対しどのように感じ、これからの人生にどう生かしていくかは、各々が、この本の頁をめくって考えて欲しい。

・「フランクルの心は永遠に語り継がれる
戦争が終わった”翌年”に行われた講演の記録とのことですが、当時、アウシュビッツの話は、さぞかし生々しいものだったのでは?と思います。私は戦後60年以上経った現在、この本を読んでいるので、アウシュビッツの情景は鮮明には浮かんできませんが、この講演の時点では、「それは、すぐそこ」にあったようなものだったのでしょう。アウシュビッツの地獄は、たった1年前にすぐ近くで実際に起こったことだったのです。とても重厚な講演だったのでは・・などと、いろいろ思いをはせてしまいました。

フランクルは、精神科医でロゴセラピー(実在分析)の創始者です。21世紀、心療医療は目覚しい発展をとげ、長年引きずってきた心理的苦痛を数分で消去するような画期的な療法(EMDRやTFT)などが出てきたので「苦しみに意味を見出して生きるより、苦しみは早く取り去って楽に生きたほうが100倍良い!」という人が増えてきました。まあ、私もそのほうが良いですが(笑)。でも苦しみに意味を見出して生きる姿勢は崇高です。

この本を読んだら「夜と霧」も是非読んでください。「苦しむことにどのような意味や価値があるのか?」ということを極限の状態において、フランクルが語るシーンがあります。

このフランクルの心は、しっかりと受け継いでいきたいと思います。

・「凌駕させられた数少ない書
強制収容所から生還した数少ない人物の一人である著者の体験を基にした圧倒的な人生肯定論。

僕は学識もなく、哲学や思想などにも疎いです。しかし著者が哲学者や思想家など引き合いに出し、講演した模様を綴った本書を手にし、揺さぶれられる程の感動を受けました。それは言葉で表せられない程の残虐世界(言い表せないですね。)の中でも希望の光を見失わず、「どんな事にも意味がある」、「目的はある」と固く信じ、答え続けようとしたからだと言う事でしょう!ありきたりな書き方しかできない自分に腹立たしさを感じますが、「生きる」という事において本書は、そこらの心理学者や人生を語っちゃってる人達よりも何十倍、何百倍もの生命へのポジティビィティを感じさせてくれました。

もちろん今までの自分自身にも考え直させれるところが沢山ありました。

・「生きる意味を問う古典的名著
生きる意味を問うのではなく、常に問いかけを行っている人生に対して応えることが、生きる本当の意味であると著者は説く。安易な悲観主義、虚無主義を越えて人間の生きる意味を問う好著。病気に苦しむ人、リストラに悩むサラリーマン、「自分探し」に疲れた人などは、是非読んでみてください。僕も得るところ大でした。

それでも人生にイエスと言う (詳細)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

・「癖がなく、読みやすい入門書。
本書は、なぜニーチェがフーコーやドゥルーズといったポストモダン思想において注目されているのかという説明から始まり、その後も随所にプラトンやショーペンハウエルといったニーチェを理解するうえで欠かせない哲学者の適切な解説が入る。異論の多い「力への意志」説については、よく見られる4つの視点からアプローチしている。初学者に安心してすすめられるニーチェ入門。

下に、「本書のニーチェは死んでいる」などといったカスタマーレビューが載っていたが、入門書になって死なない哲学書は本来ない。論理的な体系を避けるニーチェの著作はなおさらである。癖のある文章をかけば生きているように見えたとしても、それはまやかしに過ぎないわけで、結局は原書にあたるしかないはずなのである。だから、入門書という枠の中で考えれば、竹田氏のようにとことん読みやすい記述こそふさわしいものだと思う。

・「ニーチェをより深く知るために
 早大大学院で哲学を勉強されていた方が、わかりやすく適切な解説書として本書を薦めていたので、手に取りました。

 本書では、単にニーチェの思想だけを解体し、考察するのでなく、その背後にあった時代の情勢や、ニーチェ以前・以後の哲学者たちについても分かりやすく説明されています。

 それによって、ニーチェがなぜ、徹底的にキリスト教を批判するのかということの時代背景や、ニーチェの思想の源泉がどこにあるのかということを理解することができました。

 また、核であるニーチェ思想の解説も見事なものでした。「ツァラトゥストラ」を読んだ私が、もっとも知りたかった“永遠回帰”については、鳥肌が立ってしまうほどでした。

 これで、「ツァラトゥストラ」のアウトラインは掴めたかなと思いました。

 ただ、それでスッキリさせてくれるほどニーチェという人物は甘くなくて、本書を読んで新たに湧き出てきた疑問というものもあり、それによって悩ましい気分にさせられました。

 しかし、思想をある程度正確に理解した上での疑問というものは、不正確でピントの合わない状態で悩むよりも有意義でしょう。

 本書を読むことで、ますますニーチェが分からなくなるという事態も起こり得ますが、ニーチェをより深く知ろうと思うのなら、本書のような入門書は外せないのではないでしょうか。

 ニーチェの著作を読んで、“なんとなくわかった”という状態になったら、本書をぜひ手に取ってみてください!

・「すばらしい!!
後半のルサンチマン云々の箇所は、読んでいて魂を揺さぶられた。自分が求めていた言葉はこれだと。思わず線を引きまくってしまった。読み返すたびに滾々と生きる力が湧いて来る文章は珍しいと思う。

原典でもないし所詮は入門書だろ、という批判もあるかもしれないが、哲学関連の本を読んで感動したのは、私にとってこれが初めてだった。

・「こうして殺されていくのか?
永井氏のものとこの本を読み比べてみればわかることだが、この本を読んで見えてくるニーチェは、通俗道徳とさえ共犯関係に立てるものだし、人生読本として読むに耐えうる思想家である。しかし、そうであればあるほど「ニーチェなんぞ要らない」という一言で切って捨てたくなってしまう。これは、思想家と哲学者などという区別の問題ではなく、単に読んでいてくだらないのだ。この本のニーチェは死んでいる。竹田氏は、同じシリーズのプラトンの入門書で、プラトンを蘇生させたのだが、ニーチェも同じように活かそうとして失敗している。プラトンは、儀礼的な批判の反復にさらされている。だが、ニーチェに関しては、そうではない。

 あと、現代思想に興味がない人間にとっては、ドゥルーズがニーチェについて何を書いていようがいまいがどうでもいい。ニーチェの本のなかで学問的意義を完全に失っているものがあっても、それもどうでもいい。解説書なら、腐るほどあるはずだ。そして、この本は腐るほどあるなかの一冊に過ぎない、ただそれだけだ。

・「いい本ですね。
 著者がニーチェの言わんとしてることを読者に伝えようとする熱意がひしひしと感じられました。そしてちゃんと伝わってきます。適材適所でニーチェの言葉を引用していて、そこら辺(どこら辺?)のかったるい入門書とも一味違います。 ニーチェ哲学の根っこは<力への意志>だったんですね。この概念は現代人にはすごく受け入れやすい。そしてこれを飲み込めれば、巷で一番目に付く<超人>や<永遠回帰>というニーチェのプロジェクトがすんなり受け入れられる。そしてそのプロジェクトのために先ずニーチェがやったのが<ルサンチマン批判>だったんですねぇ。 やぁ、わかりやすかった。

ニーチェ入門 (ちくま新書) (詳細)

ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3

・「だれでも読めるが、だれにも読めない書物
ニーチェの最重要著作。かなり独特の散文物語で、決して分かり易くはないが、それでもニーチェの著作の中ではかなり読みやすい部類に入ると思う。ニーチェの思想の核となる書物であるから、ニーチェが初めての方はまずこちらを繰り返しじっくり読むことをお薦めする。

下巻では上巻で中心的に展開された「超人」思想に続き「永遠回帰」が中心に説かれる。ニーチェ曰く「考えられうるかぎりでの最高の生の肯定方法」である「永遠回帰」。過去の苦悩を受け容れつつも束縛されることなく、本来の自己自身、「あるところの自分」になるため、自由な精神をもって生の力を意志する。そうすることによって、そのためだけに全人生を永遠に繰り返すことを望むほどの最高の瞬間を創る・・・。ニーチェの「永遠回帰」の思想は、人生の旅半ば、暗い森に迷い込んだ人間にとってどれほどの勇気を与えるだろうか。

この『ツァラトゥストラ』がニーチェの最重要著作であることに間違いはないが、これだけでニーチェを評価するのは早計でもある。さらにニーチェを知りたい方は『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『反キリスト者』『この人を見よ』あたりは押さえておきたい。

・「詩的な哲学表現
本書では全肯定の思想を永遠回帰というイメージで語っている。別書「権力への意志」には、無限の時間の中で有限の組み合わせという宇宙において、起こりえることはすでに起き、また無限回起こりえる、という散文的でわかりやすい断章が残っているので、そちらも参照されたし。

・「永遠回帰の誘惑者
ツァラトゥストラには、教え子たちができた。彼らを「ましな人々」と名付けた教師は、彼らの愚かさを告発し、時に杖で殴打する。

右手の王・左手の王、魔術師、片目の司祭、ヒルの脳髄研究者、さまざまな「ましな者」がツァラトゥストラに従う、彼の大切な愚か者である。

そしてツァラトゥストラに対立する登場人物に、「小人」がいる。彼は重力の魔の別名であり、同時にツァラトゥストラ本人でもある。

「小人め! おまえか! それとも、私か!」

この作品は全てがニーチェの腹話術であり、同時にそれを暴露する書物なのである。作者はこの書物が、恥ずべき乖離で表現されていることを、隠すのではなく、恥じつつも暴露している。なぜなら乖離とは蓄群のするところであり、その喩えが「右手の王・左手の王」であり、「魔術師」だからだ。乖離で作品を描くことの暴露は、シェイクスピアが「テンペスト」で行った。

しかしツァラトゥストラは、乖離した人格の統合を目指す者であり、その意味でニーチェ哲学はニーチェ心理学とも呼ばれる。

「これからは、心理学の時代となる。」(ニーチェ)

皮肉にも梅毒で発狂した者は、未来を言い当てたのではなかろうか。そして彼の告発者であり、後継者であるユングは、この先人を次のように褒め称えた。

「ニーチェの身に何が起きたのかを、人々は理解するべきなのである。」

永遠回帰とは、ユング心理学で「エナンティオドロミー」と呼ばれる心理状態であり、「自我インフレーション」という言葉とも関係が深い。永遠回帰とは、ゲーテの愛した「永遠」と自我とが、一つに合一する瞬間である。

これを原始キリスト教で「三位一体」と呼んだのではないかとするのが、ユングのカバラおよび錬金術解釈である。永遠の第三のペルソナである聖霊とは、「永遠の女性」のことである。

・「ここに書かれていることは、即日常生活に応用可能である。
上下巻合わせたレビューです。

私は、「ツァラトゥストラ」を読み進めていくうちに、徐々に成長していく精神の向上の音を聞きました。

既成概念を疑い、ぶっ壊して自分の意思で自分の人生を生きること。そして、中途半端な同情は、誰のためにもならないから、極力すべきでないなどなど、まさに本書の言葉たちは生き方の道標となり、私の精神に強度を与えてくれました。

・「誰にでも読めるが誰にも読めない本。うーん納得
正直に言うとあまり内容が分かっていない気がする・・・。読んでる最中はニーチェの並々ならぬ精神、感情のせいで分かった気分にさせられてしまう人もいるだろうけど、読んでからしばらくして落ち着くと、どうもよく分かっていなかったのでは・・・という気分になる。少なくとも自分はそうだった。もしかしたらある程度は理解できていたのかもしれないが、ニーチェの本当に言いたいことには到底たどり着いていない。この本を読んだ率直な感想はこんなところだ。まあ、こういう本だからずっと読み継がれていくんだろうという感じ。

ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3 (詳細)

幸福論 (岩波文庫)

・「翻訳がどうも
アランは素晴らしいんです。しかしこの訳どうも変。例えば124ページ「注意すべきは、体操の教師のように全身運動でもって、意志的に感情を変えるべきなのに、意志のようなものをもち出して自分の感情を隠してしまうことだ」。意志によって何々すべき時に意志によってそれをしない危険とは、どういう危険なのか、わたしには分りません。数人の知人も分りませんでした。原文をみました。Chose a remarquer, on emploie une espece de volonte a cacher des sentiments, au lieu de les changer par volonte, en se mouvant tout, comme un gymnaste.誤訳とはいえないかもしれませんね。問題は「意志のようなもの」という日本語。「意志まがい」「意志もどき」の意なら間違いではないことになります。しかし「意志などというもの」「意志なんて筋違いなもの」と、この日本文の勢いからは受け取られてしまうのではないでしょうか。私はそううけとって躓きました。「意志ごときを」「意志のごときものを」と文語にすれば第二の意味しかありません。une espece de のニュアンスだけでなく文の構造からも原文だと両者の差異はクリアです。Traduttore Traditoreとはよくいったものです。アランは星5つ。でも編集者はなにをしてたのでしょう?同じページでaffectionもsentimentも「感情」だったりhypocrisieは素直に「偽善」のほうがよく分るのに「欺瞞」だったり、読み手の身になってほしいものです。

・「活動の苦痛こそ幸福であると
 私はこの本を大学生時代に友人が持っていた文庫本で拾い読みしただけで、日記に次のような感想を記している。それだけ、本書は分かりやすく、また魅力的だったのである。 『著者の幸福観を一言でいえば、「幸福の度合いは生活に対する意志の支配度に比例する」ということになろうか。活動のない平静状態より、活動のための苦痛の方がずっと幸福だ、という意味のことが書かれていたが、この言葉には、「ジャン・クリストフ」中の「死んだ真理よりも、真理を求めて懸命にうごめく誤謬の方がはるかによい」という言葉と共通する精神がある。その精神とは、生の本質を希求し、それを尊ぶ心であろう。』 友人が持っていたのは岩波版ではなかったようだが、いま、この本が岩波文庫に入っているのは嬉しい。上記の感想が、若い方々をこの本にひきつけるならば幸いである。

・「ヨーロッパの常識
よき教師であり、よき学者であるアランの優しい眼差し。人生論集より弱い気もするが、古ぼけない心の言葉に、解説の必要も無いくらいだ。

・「僕がこれまで読んだ本の中で間違いなくベスト5に入ります
僕がこれまで読んだ本の中で間違いなくベスト5に入ります。日々の生活を楽しくものにするための、心も持ち方についてのヒント、知恵がどのページにも含まれています。とても簡明な文で書かれているのにとても新鮮。アランは、人間観察の天才です。解説によると誰かが「この世でもっとも美しい本」と呼んだらしいです。私も賛成です.この本より美しい本を知りません。

僕は30台中盤になって読みました。この本を10代で読んでいたら、また違った読み方になって、その後の僕の生き方も違ったものになったと思います。いずれにしても、アラン、訳者の神谷幹夫さん、出版社に感謝します。

印象に残った文を少し挙げます。「望んでいるものは何でも、人を待っている山のようなもので、取り逃がすこともない。しかし、よじ登らなければならない。」「どんな小さな努力でも、それをすることで、無限の結果が生まれてくる。」「悲しみとはけっして高貴なものでもなければ、美しいものでも有益なものでもないと考えることから始めよう。」

・「即効性があります
論文と言うよりもエッセイに近い感じで、それゆえに少し馬鹿にしていた部分もあったのですが、読んでみるとすごくいい。だいたい哲学で論じてあることって、その本を手にしたときに期待したものと、著者の論理に引きずられ読み終わったときに感じたこととは、ひらきがあって、騙されたような気分になることもわりとあるんですが、この本はそんなことはない。直球勝負で、人生がすこし楽になる方法が具体的に語られています。あくびをして体に空気を入れること、身体を動かすこと、など、本当につらいときにやったらいいことが書いてあります。

幸福論 (岩波文庫) (詳細)
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